関西現代俳句協会

2013年3月のエッセイ

2011.3.11

曾根 毅

 日帰り予定の出張で仙台港のとある会議室に居た。午後、室内の複数の携帯電話から緊急地震速報が鳴り響いた。直後、尋常でない横揺れが始まり、机の下に全員が伏せた。可動机が揺れとともに大きく動くのを押さえるのに苦労した。揺れは1分程度過ぎた頃から一層力を増し、絶え間なく揺さぶり続け、その異常な力に身の不安を感じ始めた。建物を支える鉄骨が耐えうるものかどうか、その耐震イメージが繰り返し頭を過った。

 3分間の巨大な揺れが一段落し、会議室から脱出。向かいにある事務室の扉を開けると、机上のあらゆるものが散乱し、キャビネットは倒れ、天井の一部は脱落。既に人の気配は無かった。会議室には机と椅子以外に何も無かったことが無傷に幸いしたのだ。テレビをつけると、大津波警報が発令されており、5分後に東北沿岸到達との報道。建物の外に出ると、人々が茫然と立ち尽くし、中にはショックで泣き崩れる人、地面に倒れこむ人も見られた。忘れ物を気にする声も聞こえたが、揺れの再発を考えてか、もう誰も建家に戻ろうとはしなかった。元々津波の警戒地区で訓練もあった為、内陸側への避難を開始。仙石線向こうの中野栄小学校が避難場所と定められていた。

 私は社員ら数名とともに、その後しばらくの成り行きを建物の道路向かいで見守った。余震の度に窓ガラスが激しく踊り、駐車場のアスファルトが所々目に見える動きで陥没していった。周囲は停電し、信号は機能せず交差点は混乱渋滞。道を尋ねられれば避難を促した。約30分後、海の方から低く茶色い波が道路を侵しつつこちらに向かって来るのを確認した。「津波だ、逃げろ」全員が駆けた。途中何度も振り返りながら津波の速度を確かめ、手荷物を投げ捨てるべきか、近くの建物の階段に登るべきか迷った。周辺建物に倒壊は無いが、駅前道路には配水管の破裂によると思われる大きな噴水と水溜りが出来ていた。

 雪の降る小学校に辿り着くと、大勢の避難者たちが安否を確認し合っている。夕方、乾パンと二人に1本の水、段ボールの配給があり、夜は蝋燭だけの暗い教室に身を寄せ合い、ラジオのニュースと断続的な余震、遠く石油タンクの炎、空腹と寒さに身を強張らせ窮屈な夜明けを待った。これが私の2011年3月11日、大震災の始まりであった。

    生きてあり津波のあとの斑雪   曾根 毅

    夕桜てのひらは血を隠しつつ     〃

    風花の我も陥没地帯かな       〃

    夕ぐれのバスに残りし春の泥     〃

    霾るや墓の頭を見尽して       〃

    鶏頭の俄かに声を漏らしけり     〃

    わが死後も掛かりしままの冬帽子   〃

    眠る子ら眠りつづけて竜の玉     〃

(以上)

◆「2011.3.11」(にせんじゅういち さん いちいち):

曾根 毅(そね つよし)◆