2013年2月のエッセイ密教系の思い出堺谷 真人二十代の頃、縁あって真言密教に傾倒していた時期がある。 ある年の初夏、三重県の山中で滝行をした。 杉林の急斜面を流れ落ちるせせらぎが懸崖に至って高さ2メートル半、幅1メートル半ばかりの小さな滝となり、深さ70~80センチほどの澄んだ滝壺を従えていた。白装束の老師がまず滝壺に入る。水しぶきを浴びて般若心経や慈救の呪(じくのしゅ)を朗々と唱える老師を眺めていた私は、その光景にひそかに落胆した。滝行といえば、『平家物語』で荒法師・文覚上人が行じたごとく、真冬の那智の滝壺に幾日も浸かるような壮絶なシーンを想像していたのに、眼前のそれはただ巨大な打たせ湯にしか見えなかったからである。 しかし、直後、交代で滝壺に踏み込んだ私は、自己の認識の甘さを痛感した。初夏とはいえ、深山の湧き水を集めた滝の水は冷たい。下肢から急速に熱を奪ってゆく。いざ滝を頭上まともに浴びると、存外強い水圧に負けそうになる。身体がぐらついた。すかさず老師がいう。「心経でも何でも結構です。声に出して唱えて」 無茶な命令である。私は経文や真言のたぐいをまだ何ひとつ暗誦できない初心者なのだ。だが、足腰は冷えるし、水はとめどなく落ちてくる。とにかく何か大声で唱えてでもいない限り、この滝に抗う術はないのだと遅蒔きながら得心した。このとき、咄嗟の窮地を救ってくれたのは歴代天皇の漢風諡号であった。「神武、綏靖、安寧、懿徳、孝昭、孝安、孝霊・・・」第82代・後鳥羽天皇あたりまで唱えたように記憶するが、口からも鼻からも遠慮なく水が流れ込むのには閉口した。 別の年の一月、滝の近くで護摩法を修したこともある。不動明王を奉祀する小堂に籠もり、宵の口、深夜、早朝と三座の護摩を焚く。私も白装束で老師に侍坐し、念珠を爪繰りながら般若心経や不動明王ほか諸仏諸尊の真言を誦するのである。厳冬期、夜間の気温は氷点下数度まで下がる。護摩壇の火中に投ずる目的で用意した樒を桶の水に漬けておくのだが、夜が更けると、枝ごと凍りついてしまう。氷を砕き水を替えても、1時間ほどでまた凍りつく。凜冽たる底冷えは骨身にこたえた。 それでも、私は護摩が好きであった。木製の柄の先端に真鍮の匙がついた特大の耳掻きのような法具がある。これで胡麻油を掬って火の中に灌ぎかけると香ばしい匂いが四隣にぱっとひろがり、一瞬、中華料理屋に入った気がする。なんだか美味そうなのである。杉林の深い闇の中、護摩木の燃える匂いや爆ぜる音、オレンジ色にゆらめく焔も捨てがたかった。 深夜、堂内にまでしんしんと迫る寒気の中で、不動明王の真言を一心不乱に唱えていると、ふと妙な感覚に襲われた。自分が真言を唱えているのではなく、あたかも真言が自分を唱えているかのように感じたのだ。自分は虚空に浮かぶ一本の笛であり、劫初以来、広大無辺の虚空に遍満している真理を受けとめて音声化する装置である、というイメージがこのとき鮮明に脳裏に結ばれた。 ここまでが真言密教にまつわる私の思い出話の一端である。神秘体験や悟りとは無縁ながら、水や火、山川草木などの自然との印象的な出会いの数々は、私が俳句を詠むときの構えや感じ方になにがしかの影響を与えているかもしれない。以下、この当時の作品を含めて旧作を掲げ、エッセーの結びとしたい。 行者瀧散りそびれたる花にあふ 顕密の宗論ほろび花むくげ 若楓沙門こはぜをかけ直し 慈恩忌や論議の僧の喉佛 鶯やとざして広き写経場 被甲護身とけ楤の芽は雨このむ 五鈷鈴や蟷螂余命すきとほる 山つゝじ韓の僧衣は灰染めと 踏めさうな冬凪僧はふだらくへ 有漏の身の諸根そばだつ白露かな (以上) ◆「密教系の思い出」(みっきょうけいのおもいで): 堺谷 真人(さかいたに まさと)◆ |
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