関西現代俳句協会

2013年1月のエッセイ

なめらかな時を

和田 悟朗

 昭和二十年八月六日、広島に原子爆弾が投下されたとき、ぼくはたまたま神戸の自宅に戻って居た。翌日の新聞には、桁外れの新型爆弾か、という見出しで、その被害の大きさを報じていた。当時、ぼくは「化学」を専攻する学生だったから、今までよりもっと強力な爆薬が発明されたのだろうかと化学的に思った。被害が広い範囲にひろがるためには、大気そのもの、空気中の酸素や窒素が関与する連鎖的な化学反応があるのかな、などと幼稚な想像をしたものだ。

 しかし物理学を専攻していた人たちは、もしや原子核の核分裂を応用した爆弾がとうとう出来上ったのではないかと判断して、放射能の測定機器を持って広島に走った、ということを聞いた。

 たしかに、ドイツのハーンとシュトラスマンが、ウランの原子核に中性子を当てると、他の元素の原子核の場合とは全く異って、原子核が二つに分裂し、同時に大きなエネルギーが放出されることを発見したのは、昭和十三年(一九三八)であった。

 そして、このエネルギー放出を爆弾に使おうという悪い発想が原子爆弾として実現し、広島を襲ったのが昭和二十年(一九四五)であった。新型爆弾の発明である。つまり、発見から発明までわずか七年間という短かさ。恐るべき技術。――日本の物理学者は半信半疑で広島へ走ったであろう。

 今年もそろそろ三月十一日が近付いて来た。東日本大震災は何もかも始めての現象、始めての体験であった。そのとき、ぼくはぼんやりと道を歩いていて通りすがりの人から聞いた。急いで家に戻り、テレビでその光景に見入った。平坦な仙台空港に波が押し進んでゆく場面であった。その他、津波の水が陸地を進む時の挙動は、今まで想像もしていなかった強力であり繊細であった。そしてその上、原子力発電所の崩壊。

 日本では、戦後、放射性物質の使用は禁止されていたが、昭和二十九年の第五福龍丸の死の灰事件のあと、取扱いが出来るようになり、三十年代には原子炉が建った。それ以後、何十年もの間に沢山の原発。

 ぼくは関東大震災の年、大正十二年の生まれで、当時はこの年生まれの子は「震災の子」と呼ばれていたそうだ。小学校の同級生に「震」(ふるう)という名の者も居た。「震災の子」は地震に強いといわれ、果して、平成七年の神戸の震災では、ぼくは助かった。

 あの神戸の震災の折、「ガンバローコーベ」という合言葉がいたるところに貼られていた。これは呪文のように唱えられ、例えば神戸を基地とするプロ野球の「オリックス」が腕にこの言葉を付けて奇蹟のように優勝することができた。その中には「イチロー選手」も居た。今日、東日本大震災に際し、「ガンバロー、ニッポン」が見受けられる。つまらないスローガンだと言う人も居るけれど、この言葉はやはり力を起こさせてくれるのではなかろうか。

    日の射してがんばろうにっぽん水の上   悟朗

    国難というか直ぐなる松の芯        〃

    津波して戻りし水や春の海         〃

 昨年十月末、奈良の第64回正倉院展を拝観した。毎年のようにその時期が来ると、ぼく自身の年中行事のように出かけて行かなければ気がすまないのだ。そのくせ、展示のガラス窓に張り付いて動かない人の後ろを素通りして過ぎてゆく。そして、見る人の少い空いた一つにじっと見入って満足することにする。ぼくは現在、奈良県に住んでいることにある種の満足感があって、遠来の観光客とは違って自由な近親の心を抱いている。だから珍らしそうな気分を持たなくてもよいからだ。

 ぼくは第一回目の正倉院展を拝観して、その時の入場券を大切に保管している。いまそれを見ると「正倉院特別展観、奈良帝室博物館、昭和二十一年十月二十一日――同年十一月九日」とあり、鹿の姿が画かれている。その折に詠んだ和歌三首ほど。

    いにし世の藝術(たくみ)をしたふひともわれも
      こころゆたけくならび待ちをり

    みやびとのなにを盛りけむそのままに
      白瑠璃の椀(まり)すみもすみたる

    おごそかに伎楽の面をとりかぶり
      さやに舞ひしかむかしおもほゆ    悟朗

(以上)

◆「なめらかな時を」(なめらかなときを):和田 悟朗(わだ ごろう)◆