関西現代俳句協会

2012年11月のエッセイ

長寿時代

寺西けんじ

 先日の新聞をみて驚いた。日本人の百歳以上の高齢者の数が5万人を超えたとあった。「人生五十年」とか「人間五十年、下天の内を比ぶれば、夢幻の・・」と謡われた時代はともかく、「人生七十古来稀なり」は今まで我々世代の実感でもあり、傘寿ともなると、これはもうりっぱな長老長寿だと思っていた。それがいまや九十歳百歳なのである。

 ちなみに、5万人の87%(4万5千人弱)が女性であるとのこと、宜なるかなとは筆者ばかりではあるまいが、ここではこれ以上は触れないでおく。

 かように人の一生が飛躍的に伸びることで、人生設計も修正を余儀なくされることになる。総論としの長寿は目出度い事であるが、単純に喜んでばかりはおられないのではないか。「長生きが出来る=目出度い」から、「好むと好まざるとに拘らず長生きしなければならない、頃合いのよいところで逝くということは難しい」となる。

 筆者は今60代半ばであり、俳句界では、お陰様で未だ若手?であるが、昔流ではもういつ死んでもおかしくない年代である。一方で九十歳というと、あと25年。百歳というと、あと35年も生きなければならない、ともいえる。それも、健全な心身でなければ生きる意味がないではないかということである。

 長ければよいという単純なことではない。九十・百も想定し、或いは明日やもしれぬという双方の長期スパンを考えそれに見合った準備、鍛えるところは鍛え直す という再構築を迫られているのである。

 やろうと思えばいつでも出来るという歳ではもうない。今出来ること、今しか出来ないこと。5年後でも、10年後でも出来ること。出来ないこと。やりたいこと、やるべきでない、やらない方がよいこと。15年後でも(なら)出来ること。20年後も、30年後でも出来るかもしれないこと。(これら全ては、もちろん、生きているかどうかは判らない・生きているかもしれない、という神の領域の上でのことだが)・・等々をよく考えて取捨選択をしなさいといわれているような、・・とまあ、考え過ぎてどうなるわけでもなし、なるようにしかならないと開き直るのが落ちではあるが。

 そんな思いもあって、今、「関西俳誌連盟」(以下 関俳連)の仕事を引き受けている。これも縁と思ってのことだが、いささか身の程知らずのところがあって、蛮勇をふるってしまう悪い癖がある。どうせやるなら今しかないとばかりに、あれもこれも頑張ってしまう。関俳連だけでなく他のことも結構やっている、やらねばならない。仕事は増えるばかり、多忙を極め、その上、いらぬ反感まで買うようなことにもなりかねない。

 まあしかし、これも性分、60代の今しか出来ないことだと自らを叱咤激励し、あれもこれも、今だからやっている。

 心身は寄る年波に勝てず衰えていくだろうが、脳はいくつになっても鍛えれば鍛えるだけ発達可能とのこと。ならば今のうちにせっせと励み、90-100歳にも耐え得るような脳の強化に勤しもうと思っている。それには俳句が最適である。幸い自分には俳句があると思っている。

 「関俳連」は、1959年に結成され今年54年目を迎えている。この連盟は、個人個人の集合ではなく俳句誌単位の集合体として、その運営は、主宰・代表自らではなく、主宰・代表が派遣した常任委員会が運営にあたるという画期的なもので、今日まで毎月欠かすことなく営々と受け継がれている。

 冒頭長寿時代になったとはいえ、昨今の高齢化による加盟結社の減少に心痛めているが、この先人先達の築いた業績と努力への感謝を念頭に、その偉業を守り抜く決意とさらなる発展を誓うことが我々後進の務めであると考え、励むことにしている。

(以上)

◆「長寿時代」(ちょうじゅじだい): 寺西けんじ(てらにし けんじ)◆