関西現代俳句協会

2012年6月のエッセイ

鰹船・もう一つの人生

岡部 榮一

 もう58年ほど前のことになるがなにかに書いておきたいと思っていたことである。実際に鰹船に乗った経験があったわけではないが、もしかしたら違った人生であったかもしれないと思う私の原風景である。

 家族が神戸の山本通から母の郷里の伊勢志摩に疎開したのが昭和19年5月のことであった。母の郷里は五ヵ所湾という小さな湾の入口にあり太平洋に面した人口約千人ほどの小さな漁村である。終戦後、その村で生まれ神戸に帰るまでの8年間を過ごしている。もちろん、神戸に住んでいたことなど知る由もなく、帰ると言う意識などあるはずもなかった。短い期間ではあったが物心がついたころのことである。村での記憶がくっきりと何時までも色あせない断層として残っている。昭和29年の夏に神戸に転居するまでのことである。

   峰雲を鞄に詰めて転校す      榮一

 伊勢志摩の漁師もいろいろであるが母の郷里の漁師は冬場は沿岸で伊勢海老を差し網で獲り、春に伊勢海老漁が終わるころ、沖合の鰹漁に出かけたのである。回遊魚の鰹の漁期は黒潮に乗って北上してくる3月から南下する9月終りごろまでであった。即ち、鹿児島沖から三陸沖まで鰹を追いかけての漁である。小さな村ではあったが鰹船は昭和29年当時でも隣村と合わせて23隻ほどあったようである。2年後の31年には40隻、最盛期の昭和50年ごろには5百トンクラスの船も合わせて60隻ほどになったようである。大型船は南太平洋にまで操業の場を広げている。また、インド洋までマグロを獲りに行く船も数隻いたようである。

   大潮に磯の口開く伊勢鹿尾菜    榮一

 さて、昭和24年当時にはちいさな木船から150トン前後の鉄船になってはいたが長期にわたって遠洋操業をする今ほどの設備はなく、一度の出航で短くて3日、長くても10日ぐらいの操業であった。そんなインターバルで操業を繰り返しながら鰹を追えば7ヶ月近く家を留守にすることになる。父と長兄と次兄がいつも家にいないのが当たり前の生活であった。当時の鰹船は船長、船頭を含め30人前後の乗組み員であつた。10月になると村に帰ってくる船が待ち遠しかったものである。どんな土産を持って帰ってくるのかがなによりの楽しみであった。学校から帰ると母がご近所や親戚に配る岩手や宮城のリンゴや長十郎梨などを選り分けていれば胸がわくわくしたものである。

 中学を卒業すると鰹船に雑用や飯炊きをするカシキと呼ばれた見習い漁師として船に乗るのが当たり前に普通のことであった。自身もそのようになるのであろうとなんの疑いもなく思っていたし迷いもなかったように思う。

 かって隆盛をほこっていた鰹船も後継者などの問題もあり現在は10隻ほどになっている。漁師になっていればどんな人生になっていたかは分からないが、少なくとも俳句に縁の無い人生であったことは間違いのないことであろう。

   母犯し沖へ沖へと夏の蝶      榮一

 母の郷里の小さな桟橋の沖に大漁旗を掲げて停泊していた白い鰹船にもう一つがあったかもしれないのである。

(以上)

◆「鰹船・もう一つの人生」(かつおぶね・もうひとつのじんせい):

岡部 榮一(おかべ えいいち)◆