関西現代俳句協会

2009年 10月のエッセイ

「卒業写真」

的井 健朗

 今、手許に私の小学校の卒業記念のアルバムがあります。それは昭和14年(1939)、七十年も前の写真で当然モノクロ、セピア色に変色はしていますが、畏まって写っている少年達の顔、名前と照らし合わすと私は一瞬にタイムスリップ、七十年昔の時代に遊んでしまうのです。その中より忘れ得ない思い出を書き留めてみたい。

 一番目に林田廣一君の事を書いてみる。彼は秀才型の少年。いつも級長、副級長の標である赤い房か緑の房を胸に付けていた。それはクラス全員の選挙で決まるのです。それ位利口な少年で、あいつには敵わないという印象が皆の頭の中にあったのでしょう。

 二十年程前に現俳協の会合で先年亡くなられた、林田紀音夫さんと少しお話をする機会があり、その時廣一君が紀音夫さんの弟であることをはじめて知ったのです。又当然、紀音夫さんは同じ小学校の二年先輩であると云うことも。又私が在籍していた岡本圭岳師の火星俳句会の大先輩、更に更に驚いたことは廣一君が十数年前に亡くなったと紀音夫さんの口から聞き、我が耳を疑って聞き直したことも覚えています。廣一君は五十才代で此の世を去ってしまったのです。眼鏡の奥で優しく微笑む少年、林田廣一君の小学校卒業後のことは一切知りませんが、紀音夫さんの俳句を目に耳にする度に連鎖的に廣一君の事を思い出すでしょう。

 次に杉本総治君の思い出を少し書き出してみよう。総治君も卒業後四十年余り音信もなく、私も戦中戦後のどさくさに病を得て療養の傍ら主治医の先生に俳句の手ほどきを受けていたのです。数年後、何人かの句友も出来誘われ西成区の某所の句会に出席、幹事さんの紹介で悠然と現われた人を見てびっくり、四十年ほど会っていないのですが、紛れもない杉本総治君、俳名杉本雷造、西東三鬼を師と仰ぎ、第18回現代俳句協会賞受賞など、今を時めく杉本雷造が眼前に現われ、今の自分が気恥ずかしく、心の隅で誇らしく複雑な気持ちでありました。その杉本総治君も平成15年12月4日、西方浄土へ旅立ってしまったのです。

 俳句に係わって齢を重ね七十代半ばに一番大切な友人を失ったショックは何にも例えようのない深刻なものでした。

 昭和20年8月14日の午前、大阪の森之宮にあった陸軍の造兵廠にアメリカ空軍のB29に依る激烈な爆弾攻撃に完膚無きまで叩きのめされ目を覆うばかりの惨状、数百人の人が亡くなったのですが、その中に卒業写真の中のひとりの少女が爆死。目と鼻の先に住む荒物屋とタバコ屋を商売にしている家庭、女子挺身隊で一番危険な陸軍の工場へ配属されたものと思われますが何よりも無念なのは、その翌日、日本は無条件降伏。

 花も蕾の青春真っただ中の乙女の生命を奪ってしまった戦争は憎い。それを生命懸けで体験した私供の世代はその思いが更に深い。