関西現代俳句協会

2009年 8月のエッセイ

「自然の不思議」

磯野 香澄

 私の狭い庭に面白いと言おうか可愛そうな紅葉の木がある。その木は高さが物干し台位で六畳の間程の広さに上向きに出た枝が広がっている。それが二か所に分れて同じ高さに揃っていて枝の上に布団が敷けそうな感じだ。元々この木は芯になる軸が無く二股に分れた枝に上向きに枝が伸びて、どの枝も自分が芯だとばかりに真っ直ぐ上に向かって伸びている。この枝々に今年初めて花が咲き、赤い実が成って2センチばかりのプロペラが沢山下がっている。私はここ迄よく育ったと泪が滲む。こんな変な形の木は世界中にこの紅葉しか無いと思う。何故こんな事が言い切れるかと言う事だが、これには深い事情がある。今から二十年ほど前、私は何時もの通り娘のお墓へ参った。

 石塔の回りに草が生えない様に那智黒と言う黒い小石を入れていた。ふと見るとその黒い小石の間にちょこっと青い物。『ええっ生えない様にしてあるのに!』石を一つ退けた。かいわれ大根みたいな双葉が覗いている。回りの小石を手が入る程度に退けた。5ミリ位の双葉の下に細い糸の様な根が背伸びをしているように土に届いている。たまたま石の隙間が真っ直ぐに開いていてそこへ種が落ちて芽を出したらしい。

 『何の芽だろう』私は根の縁を人差し指で柔らかくして根と思える所を摘まんで起こし、ティッシュに包んでお財布に入れて持って帰った。お財布の中で元気にしていたので鉢に植えて水をやって置いた。その双葉はその侭根付いたのか元気だ。でも真ん中に芯になる物が出てくると思っているのに、一向に変化が無い。どうなるのか毎日見ていると、葉の先がだんだん伸びて枝の形になって来た。しまいに葉の形は無くなって両方へ枝になって伸び出した。

 『これは何や、葉が枝になって行く』葉が落ちてそこに枝が出るのなら不思議では無いが、葉そのものが枝に変化したのだ。その葉だった枝は元気に伸びつづけ両方で1メートル以上になってそこから掌みたいな形の葉が出てきた。

 『これは紅葉の木だ』ベランダでは狭いので風呂場の横の庭の隅に無造作に降ろして置いた。両方に伸びた枝はどんどん伸びて塀のすぐ前で、どこにも触れずに大きくなって行く。大きくなっても真ん中の芯の部分には何も出て来ない。『これはお墓の土から抜いた時に芯が出るのを妨げたのだろうか』変な形で大きくなって行く。植物がこんな状態になるのは確率0に近いだろう。両方に分れた枝に可愛い葉が出て秋には紅葉した。双葉だった下の軸が伸び上がって日の当たらない庭の隅で大きくなって行く。風呂場の屋根を越えて日の当たりが良くなって、急に枝を増やし物干しの高さで広がったのだ。それども下で二つに分れているので、上から見ると二本同じような変な木が有る様に見える。私は葉が枝に変化してその枝に花が咲いて成木になった植物でこんな木は世界中にどこにも無いだろうと思えるのだ。お財布に入れて持って帰ったあんな双葉がこんなに大きくなって,プロペラができる所迄頑張ったのだ。このプロペラが落ちて芽を出したら、丁度1回りするのだと思うと愛おしくてならない。この双葉がここ迄来るのに七回の奇蹟を重ねてきた。運の良い紅葉だ。いや紅葉は苦労ばかりで不運だと思っているのかも。私は芯になる部分が駄目だと、枝が葉に変化する自然の力に畏敬すら感じるのだ。

以上