関西現代俳句協会

2008年 4月のエッセイ

「那一点」

         山陰 石楠

 「俳句」(二十年二月号)では『大特集・本当に名句?』を載せ、二十俳人の作品を各々五人の現代俳人が論じている。その中で高浜虚子の「去年今年貫く棒の如きもの」を掲げ、橋本栄治、佐々木六戈、坊城俊樹、櫂未知子、浅生田圭史が感想を述べている。

  私は平成四年上木の『空華』で、その後記に『那一点』を書き、時間に就いて考察している。このコラムで詳しくは述べられないが、「今(いま)」の「い」を発声した一瞬それは過去となり、「ま」と発音する以前は未来、発声と共に一瞬過去となる。それならば、過去と未来のはざまに存在する筈の時間は、一体どこに在るのか---。その一刹那を仏教では『那一点』と呼び、鈴木大拙先生はこれを『絶対の現在』と呼んでいる。そして時間とは、その那一点の連続したものでなくてはならない。

  虚子の作品の様な「棒の如きもの」では決してない。いったい皆さんに、「その棒は見えているのですか」と尋ねたい。

 俳句の第一義は、作者が実見し、実感するところのものが最も大切なのであり、比喩や架空のものは第二義的な方法でしかないのである。諸氏がこの虚子の作品を名句と呼ぶのに私は少々異議がある。

 『那一点』について、も少し考えてみよう。

 鈴木大拙先生は『金剛経の禅』の中で『三世心不可得---再び時間について』を、つぎの様に記している。

  瞬間の問題の解決は、存在に関するすべての問題の解決であるといってよいだろう。まず時間を直線的に考えることをやめなければならぬ。時間という直線があってその上に、過去、現在、未来が還流するものと考えると、三世の関係も意味も前後もわからなくなる。 過去、現在、未来を三世という が、一刹那に過ぎ去り、一刹那に来迎う時に、今---という存在はない。 絶対の現在は禅者のいう一念である。即今のことである。すべてはこの絶対の現在から生まれ出て、またそこへ滅し去るのである。これを形であらわすと、時間は直線に見てはいけない。霊性的直覚の中から見ると、 一念の円相の上に、過去、現在、未来が現出し没入するというように道取しなくてはならないのである。それで一念または一念不生のうちに千年があり、万年があり、無量劫があるのである。

 今---という那一点、点とは「位置だけがあって大きさの無いもの」と定義されるが、その無相の一点を円相の中心として、無心また無心___という様に一念を持続して行く、それが那一点のあり方であろう。

 繰り返しいうが、那一点とはすなわち絶対の現在である。 この様に考えてくると、虚子の「棒の如きもの」という比喩は如何にも間延びした、如何にも時という真実から遊離した表現であるかがわかろうというものである。

以上

  (例月の本文及び俳句の表現で、ふりがな表示が括弧書きになっているのは、インターネット・システムの制約のためです。ご了解ください・・・事務局)