関西現代俳句協会

2007年 12月のエッセイ

「開戦日十二月八日」

           田口美喜江

 月面から見た地球映像が「かぐや」から届いた。世界で初めてとのこと、青くきれいな小さい球体に息をのんだ。

 こんな地球で絶える事なき戦火、人間が人間に殺されている残酷さ哀しい。日本もあの大東亜戦争開戦、十二月八日小学生だった。

 全校生徒が講堂に集められ、よく分らぬまま戦争が初まったと聞かされた。ラジオから流れる昂揚したニュースに異様なものを感じ恐かった。でもそれからしばらくは生活にもあまり変化は無かった様だが、一方では軍国主義、戦時色は列島を埋めつくしていった。

 やがて玉砕、本土空襲、食糧不足と昭和の激動は想像を絶するものだった。大家族だったわが家も食料調達に母は実家のあった鹿児島まで夜汽車で何度か通った。長女の私も手伝いに連れて行かれた。その鹿児島では親戚のお兄ちゃんが行く度によく遊んでくれ楽しかった。その三人の少年もやがて招集され輸送艦で南方へ向かう途中、戦う事もなく撃沈され沈んでしまったそうだ。

 母は敗戦後もしばらく内緒にしていたし、母の帰郷もそれ以後出来なかった。

 少年らの死を聞かされ「えっそんな事----お兄ちゃん」と叫んで駆け出した。秋の夕暮のなか一気に海辺まで。もう二度と逢えない優しいお兄ちゃん、けん玉もビー玉も、カルタ取りも教えて貰えなくなった。秋の海を見ると今も涙が出る、「寒いでしょ冷たいでしょ」とつぶやく、返事はない----。二度と大地を踏む事も青い空を見る事もなく、海底深く艦の中で永久に眠ったままなのである。

 それから昭和二十年八月六日、私のたった一人の姪が原爆で亡くなった。爆心地でポッと消えたそうだ、跡かたも無く。伯母は中学一年の一人娘を大阪は危ないからと実家の広島のお寺に疎開させていての事だった。彼女の弟達は大阪に居て今も元気に暮らしている。

 そして今年も六十六年目の開戦日十二月八日がやってくる。果してあの戦争は何だったのか、戦中戦後の青春はただ純真で真っ直ぐだった。

 あの戦争、そして日本の敗戦によって今の平和は確かにある。莫大な犠牲の上にたつその事。

この平和がいついつ迄も續く事を心より祈る。どうぞ神様一日でも早く世界中が平和になります様に----。私達はただ祈ることしか出来ない。

  誰も知らない沼で石放る開戦日

以上

(なお田口さんは本年度現代俳句全国大会を次の作品で受賞されました。

  戦が来ないようにいっぱい葱植える

  末筆ですがおめでとうございました。−事務局)

 ( 例月の本文及び俳句の表現で、ふりがな表示が括弧書きになっているのは、インターネット・システムの制約のためです。ご了解ください・・・事務局)