関西現代俳句協会

2007年 10月のエッセイ

尾崎放哉の一句   

前田霧人

 

 (須磨寺の大師堂手前にある敦盛公首洗いの池。池右手奥に見えるのが放哉の句碑。真新しい大師堂はこの十月十七日が落慶法要式で、毎月二十日、二十一日には「須磨のお大師さん」として縁日があり、年間十数万人の参拝客で賑わいます。)

 九月二十五日は中秋の名月、十月二十三日は後の月、十三夜。八月二十八日には三年振りの皆既月食もありました。月の美しい良い季節を迎えていますが、月の句と言えば、私がまず思うのは次の句です。

  こんなよい月を一人で見て寝る  尾崎放哉

 彼の師、荻原井泉水は『尾崎放哉集―大空』の「放哉のこと」で、この句について次のように評しています。

 「彼は勿論、「一人」ぎりで或る寺の堂守をしていたのだが、「こんな好い月」とまで自然にほれぼれと、是程に融け込んでゆく気持は、ちょっと得難い所である。そして一人でたんのうした上は、結局また一人で「寝る」より他はない、人間らしい淋しさも読む者をしんみりさせる。」

 的確で、しかも愛情の溢れる、これ以上付け加える必要のない程の文章です。「或る寺」というのは神戸市須磨区にある須磨寺のことで、須磨浦を望む景勝の地にある真言宗の名刹です。本堂の左手、大師堂の手前にある敦盛公首洗いの池のほとりに、この句を刻んだ句碑が建っています。

 放哉が大師堂の堂守として、この寺に来たのは大正十三年六月です。会社にも家庭にも破綻を来たし結核という死病まで得て大陸から帰国してから、井泉水の世話により香川県小豆島の西光寺奥の院南郷庵(みなんごあん)に終焉の地を見つけるまでの流転放浪の時代、彼が大正十五年四月に四十一歳で亡くなる僅か二年前に当たります。そして、『尾崎放哉集―大空』に収められた七二六句の内、実に半数近い三四四句がこの十ヵ月足らずの須磨寺時代に作られています。

 これはほぼ同じ期間にわたる終焉の地、小豆島の南郷庵における句数、二一六句をも大幅に上回っており、「性来、殊の外海が好き」な彼が京都の一燈園時代の束縛生活からも開放されて、句作に一つの転機を迎えたことを物語っています。

 「私は性来、殊の外海が好きでありまして、海を見て居るか、波音を聞いて居ると、大抵な脳の中のイザコザは消えて無くなってしまうのです。」

 「どんな悪い事を私がしても、海は常にだまって、ニコニコとして抱擁してくれるように思われるのであります。丁度、慈愛の深い母親といっしょに居る時のような心持になって居るのであります。」

 「私が、流転放浪の三ヶ年の間、常に、少しでも海が見える、或は又海に近い処にあるお寺を選んで歩いて居りましたと云う理由は、猶一つ、海の近い処にある空が、……殊更その朝と夕とに於て……そこに流れて居るあらゆる雲の形と色とを、それは種々様様に変形し、変色して見せてくれると云うことであります。」

 彼は『尾崎放哉集―大空』の「入庵雑記」で、海についてこのように述懐しています。冒頭の句は海を詠んだものではありませんが、夜になれば放哉の海と空は一つに繋がり、そして、この上もなく美しい船、月を浮かべるのでしょう。

 ある女性が放哉のことを、こう言いました。「妻を捨て、家庭を捨て、身勝手な男や。」と。

恐らくその通りでしょう。また、彼の酒癖の悪さや度重なる金品の無心に、回りの人間がどれだけ苦い思いをしたことかも知れません。

しかし、彼は十分に罰せられているのです。

 「病勢が悪化してゆくのに、句が生色を増してゆく。」と戸惑い、「体温計が、ふとんの上に落ちた。かれは、腋(わき)の下を見つめた。垢(あか)のこびりついた胸は、肉がすっかりそげ落ちて肋骨が浮き出し、皮膚がハンモックのようにくぼんでいる。腕にも肉がなく、摺子木(すりこぎ)のように細い。体温計が落ちるのも無理はなかった。」という状態になって、ひとりで死んで行った彼に、人々はそれ以上何を望むというのでしょうか(引用は何れも、吉村昭『海も暮れきる』より)。

 放哉の懐かしい句に出会う時、男たちは心の奥底に隠してある放浪への憧れをそっと解き放つのです。

以上

 ( 例月の本文及び俳句の表現で、ふりがな表示が括弧書きになっているのは、インターネット・システムの制約のためです。ご了解ください・・・事務局)