関西現代俳句協会

2007年 7月のエッセイ

---ミニ吟行で得たもの--- 

辻本 冷湖

           

 「がたろ句会」と名付けて5〜6人で「ミニ吟行」を行っている。最寄りの公園、通りすがりの神社、仏閣、商店街やビルの谷間等々場所には困らない。しかも少ない人数なので思い付くまま散策出来小回りがきく。句会はベンチで休憩所で食事のテーブルでといとも簡単に開けるのがいい、結構楽しいものだ。

 ある日、大阪市旭区にある「城北公園」の菖蒲園に出かけた。「城北公園」といえばその昔、「水都祭の花火大会」に子供たちを連れて行った思い出の場所だ。

 さまざまな花菖蒲に魅了されながら、思い思いに散策し作句に耽った。腹ごしらえの後、菖蒲園を出て淀川の堤防を上がる。

 「菅原城北大橋」の南詰に、地蔵尊の祠と並んで「千人塚」が立っていて供花と千羽鶴が供えてあった。その塚の由来を読み正直大きな衝撃を受けたのは私だけではない。次はその一部を抜粋したものである。

    「千人塚由来記」

 日本未曾有の大敗戦の昭和20年6月7日、残存せる大阪を壊滅せる大空襲により戦災死者数万人中、身元不詳の千数百の遺体を此処に集め疎開家屋の廃材を以て茶毘に付す、鬼哭啾々たる黒煙天に柱し三日三晩に及ぶ悉く市民の奉仕協力による遺骨は其侭土中にして此処に葬る。---中略---

 この地下に眠る霊位の冥福を祈り国家安泰と軍官専横苛政による国民塗炭の痛困と犠牲の再発を永く阻止し世界人類の和平を祈願する日本国民の総意を世に問うものなり。

                              1980年5月5日後世正亮記

 当時私は満州のハルピンに在住していたため、大阪の大空襲の事は、話に聞いた以外知るよしもないのだが、諸にその地獄さながらの戦禍に遭われた方々が身辺に大勢おられ身の毛のよだつ話を聞く機会はあった。

 その大阪大空襲の際に犠牲になられた人々が、此処に、将にこの場所に眠っておられるという。同じ大阪に住みながら、知らなかった事とはいえ今の今まで、一度も訪れていなかったことを恥ずかしく思い詫びながら、合掌し心中より御冥福をお祈りした。

   (鬼哭啾々たる黒煙天に柱し三日三晩に及ぶ…)。

 茶毘に付すその煙の様をこの一文から想像し、背中に鬼気の走るのを覚えた。大阪に住んでいてこの「千人塚」の存在を全く知らなかったとは・・・情け無く申訳ない事である。

 「戦争という獰猛なる生物」を飼いたがる人間の愚かさは、一体何時になったら消えるのだろう。

  戦争が廊下の奥に立ってゐた    渡辺白泉

 この恐怖この不気味さを、絶対に未来へ?げてはならない。憲法九条を守ることも含め、今真剣に思っている事である。

 「千人塚」は「ミニ吟行」で偶然に知り得た事の一つだが、まだまだ吟行先で教えられ学ぶ事は限りなくあるだろうし、この後も様々な所を訪ね歩き、俳句と共に大切な事を学んでゆきたいと思っている。

以上