関西現代俳句協会

2007年 3月のエッセイ

「友あり遠方より来る」

         川村 祥子  

 

                 (和歌山城庭園にて。中央無帽の男性が須賀吐句司さん)

  移民像冬の波濤を指して建つ   須賀あつ子

  商談は牛二千頭牧小春       須賀吐句司

 平成十九年NHK俳句大会海外部門の「俳句大賞」を受賞された須賀あつ子様の俳句と、ご主人の須賀吐句司様の入選句を揚げさせて戴きました。御主人は受賞式に招かれたあつ子夫人の代りに出席の為、ブラジルのサンパウロ州ポンペイア市から来日されました。須賀さんは、私の夫と同郷の旧友であります。

 和歌山県串本町出身の須賀さんは、昭和28年、18歳の時既に移住していた一族の元へ日系移民1世として渡航されました。奥様は隣家の幼馴染で、後に花嫁移民船で渡航されて結婚し3人のお子様と共に一家を成されました。昭和28年当時のブラジルは、日本よりも富み、輝いていたそうです。移民像は、初めて大地を踏んだ大西洋側のサンパウロ市サントス港に建っているそうです。いつか日本へ帰りたいと夢見ながら、ブラジルの地に眠られた方が,凡そ8割に及ぶと聞きました。先年NHKのドラマ「ハルとナツ」を日系の方々は、涙ながらに観たそうです。大賞句は誰しもの胸に迫ります。現在ではイタリア系、イギリス系、ドイツ系等と異民族間の結婚が普通になり混血が進み、平和な母国ブラジルを誇らしく思われています。

  苜蓿どこまでも白移民墓地    祥子

 ロサンゼルスの親戚の墓にお参りした時、広大な墓地に驚きました。また墓石には、母国日本の出身地、熊本県出身、広島県出身等などと彫られていました。故人の望郷の念に想いを馳せて、目頭が熱くなったことを思い出します。

 和歌山県の南紀地方は、海山が迫り平野が少ないため、農業従事者は僅かでした。熊野の山地は深く、林業も盛んでしたが、黒潮が近づく熊野灘の豊かな漁場は、古くから勇魚取り(鯨取り)として、太平洋へ船を漕ぎ出しました。那智勝浦の太地町は知られています。鯨を追うという、勇猛果敢な働きぶりはまた、海外でひと働きして「故郷へ錦を飾る」ことが男の誇りでもありました。

 荒々しい枯木灘海岸に面した串本町周参見の近くに「恋人岬」という、東西の潮がぶつかる光景を眼下に見られる所がありますが、その場所のレストランの店主が作られたという看板には「ハワイまで五千キロ、サンフランシスコまで一万キロ」と書いています。土地の人びとの目はまさに海の向こうを意識しているのです。

  アメリカへ一万哩沖霞     祥子

 和歌山県の海外移民は、明治初年から始まりました。ハワイ諸島を始め南海の

島々、南北アメリカへ希望に燃えて渡りました。日本人の勤勉さと子弟の教育熱

の高さは、着実に移住先の社会に信用を得て、大地に根差すことが出来ました。

 須賀さんも初めは、農業に従事し、コーヒーの木を育て、牛を飼い、着実に規模を広げました。入選句「商談は牛二千頭牧小春」ブラジルの大地を想像し、又放牧の牛の数にも圧倒されます。

 お子様たちは、それぞれ学問に励み、日系二世として、ブラジルで活躍されているそうです。両親のひたむきに働く姿を見て育ちましたからと謙遜されましたが、日系移民の誇りを垣間見せて頂いたように思いました。

  国籍の違う親子の星まつり   吐句司

 須賀さんはサンパウロの俳句結社(蜂鳥)に所属し支部の指導もされています。

年にT冊刊行の和歌山県の超結社『紀伊山脈』にも毎年特別参加で投句されています。ブラジルの俳句会はさすがに、日常はポルトガル語を話すために、一世、二世の後に続く方が少ないようです。

 和歌山市で、数日間滞在されましたので、早速お城で吟行俳句会を開きました。暖冬とは言え、さすがに寒中のことでもあり、冬枯れのお城は何を見ても句材であると喜んで下さいました。

  ブラジルの友の朗らや柳の芽  祥子

以上

(本文及び俳句の表現で、ふりがな表示が括弧書きになっているのは、インターネット・システムの制約のためです。ご了解ください・・・事務局)