関西現代俳句協会

2007年 2月のエッセイ

「オーロラ・宇宙にこころ奪われて」

         平田 繭子  

    

     オーロラは天に帯解き枯月夜     繭 子

           

 わたしが始めてオーロラに出遭ったのは、6年前、カナダの北極圏・フォートマクマレーでのことである。

 子どもの頃から星や宇宙に興味を持っていたわたしにとって、このオーロラとの出遭いによって、ある意味、わたしの人生観が変わったとも言えるのではないだろうか。

 子供の頃「今観ている何万、いや何億光年も果てにある星は現在消滅しているかも知れない」という神秘にこころ震える思いがした。

 わたしはこれらの星の光の空間に思いを馳せる。

 自分で作った望遠鏡(月のクレーターしか観えないものであった)で星の観察をしたことが懐かしく思い出される。

 自然は佳い、ことに大自然、果てしない宇宙は人の小さな存在を認識させてくれる。

 大宇宙に比べて、人間のちっぽけな一生は塵の塵にも満たない。だから、小さなことに捕われず、大らかな生き方をしたいものだ。人が人を殺し合い、傷つけ合うことの虚しさを思う。塵にも満たないからと言って粗末な生き方をすべきではなく、精一杯の人生を生き抜きたいものだ。

 星を観ていると、あの神秘な光にこころ洗われる思いがする。

 大阪の空では「天の川」も観ることが出来なくなった。

 去年六月、ハワイ島マウナケア山頂(4200メートル)から見上げた宙は星星星の世界。闇より星の方が多く、白く曇って観えるのもすべてが星であり、ところどころ暗くなったところが雲だという。

 軽い高山病で、眼前をピンクの星がチカチカと飛んだが、日本ではみることが出来ない星座や星を寝転んで眺めたことは幸せであった。

   転び寝に星降り余り闇涼し     繭 子

 去年の12月13日は「ふたご座」流星群を観に曽爾高原へも行った。残念ながら曇りで観ることは出来なかったが、今年もまた挑戦しようとおもっている。

 宇宙の神秘に触れて見たい想いで、あちらこちらへ出かけているわたしが出遭った究極は、やはり「オーロラ」と言えようか。

 子供の頃からの夢が叶い、「オーロラ」を初めてこの眼にしたときは、熱い涙が頬を伝った。

 淡い緑色の筋が顕れたとみるや、帯となりカーテンのようにゆらゆらとうねりつつ、空いっぱいに広がっていった。

   湧き起ちてあをむオーロラ凍月夜      繭子

 「オーロラ」は同じ姿を見せない。その魅力の虜となって、わたしはカナダへ、フィンランドへと「女神オーロラ」を求めて毎年のように出掛けている。

 一昨年は今までに観たことのない素晴らしい「オーロラ」と出遭った。

赤やピンク、紫そして緑と色を変えるそれは、まさに「女神」と言えるものであった。もう二度とこのような女神には遭えないだろうと思いつつ、今年もまた1月20日から−35度の世界、カナダ・イエローナイフへ飛ぶことにしている。

  今年の女神のご機嫌はいかがであろうか・・・。 

以上


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