関西現代俳句協会

2006年10月のエッセイ

「読者論少考」  

          花谷 清 

 適切な〈読者〉の想定は、文章を書く要諦のひとつである。例えば、答案や レポートでは、採点者がどう判断するか考えるだろう。ふり返れば、中学生のとき苦手だった作文に〈読者〉を意識した記憶はない。遅ればせながら〈読者〉を意識したのは、科学論文を英語でまとめる必要に迫られてからだ。


  大学院では、論文の書き方など教わらなかった。そこで処女論文の構想にあ たり、「だれが読者か」という問いから始めた。まず同分野の専門家(peer) と査読者(referee)とを〈読者〉に据えた。この想定は一般的と思う。論文を 投稿すると、ふたり程度の匿名の査読者が、「内容に新規性があるか、誤りがないかなどを審査し、掲載か棄却か、あるいは、修正を条件の下に再考を求め るか」を、編集者に報告することになっている。無修正の掲載は稀である。
  科学者の間には「Publish or perish. (刊行せよ、もしくは消えよ)」なる格言 がある。ぼくは寡作だ;すなわち、落ちこぼれの類いと言えよう。ただ、常に 国際学術誌に掲載してきたこと、第一著者になっている論文の被引用率が,平均を上回っているのを慰めとしている。


  研究生活に馴染んできたころ、不必要な文脈で有力者やボスの仕事への引用や言及をしているもの(どの国にもある)を散見した。実在の〈読者〉に迎合 したその種の論文−−著者のこころの有り様がみえている−−は、好ましく思 えなかった。そこでぼくの考えた執筆法は、利害のない、専門家が読むと仮定 し、その身近にいない〈私淑する読者〉唯ひとりと、眼前で対話するような気 持ちで、少しずつ原稿を改訂する方法である。これは有効な執筆法だった。

この方法で仕上げた論文が、無修正で直ちに刊行されたから。
  しかし、何故か、この方法にも次第に飽き足らなくなった。次に想定したのは、無名の〈未知の読者〉である。あるドイツ人と共著の、かなり長い原稿の 執筆に際して採った方法だ。その際、異国のひとりの若い女性科学者をこころに描きながら推敲をくり返した、何年も経ってからのことだ;面識のない東欧 の女性科学者が、ぼくの論文をたびたび引用していることがわかった。原稿執筆中に想定した〈未知の読者〉は、その女性だったのだろうか。
  このように執筆法としてのぼくの〈読者〉は、何度か進化してきた。それが、 また少し変わろうとしている。今までは、空間的に遠く隔たる〈同時代の読者〉 を仮想していた;さらに、時間的にも隔たる〈未来の読者〉を想い始めたのだ。どの国の誰であってもよい。死後、ぼくの〈小さな発見〉が、その人に役立てばと願いつつ書きたい。こうなると〈読者〉はあってなき如きもの。もし輪廻 があるなら、生まれ変わる自分自身の可能性だってある。


  さて、俳人たちは「誰にどう読まれる」と考え作句しているのだろう。答は 人それぞれ:他者に認められてもそうでなくても、こつこつ詠みつづけている
純粋俳人も多い。句会の連衆による共感、結社の主宰の評価、あるいは、俳壇 の認知を求める人もいるかもしれない。ぼくの現在の答は、「自分で納得でき れば良い。この広い時空に、一句でも目にとめてもらえる〈読者〉がひとりで もあれば、なお良い」である。そんな一句を授かればと思うのだが、実際には、 自分の納得できる一句を得るのさえ容易ではない。


   偶然はときに必然ちちろ鳴く        清


  この少考を書きながら仮定していた〈読者〉。それは、ひょっとして、拙文 を読んで下さった、あなた、だったのかもしれない。

以上

(本文及び俳句の表現で、ふりがな表示が括弧書きになっているのは、インターネット・システムの制約のためです。ご了解ください・・・事務局)