関西現代俳句協会

2006年7月のエッセイ

「ノラの国」   出口善子  

   ノルウエーは白夜だった。
  夜十時になってもまだ景色が見渡せるほど明るく、大きな丸い月が出ていた。
  ここはノラの国である。

   足袋つぐやノラともならず教師妻       久女

 白夜といえば、北欧のイメージを美しく響かせるが、街中は、道路を初めビルは勿論、地下鉄まで、いたるところで工事中。トントン、カンカン、ごうこうと騒々しい。観光シーズンなのにどうして工事ばかりしているのかが不審で尋ねると、他の季節は夜が長く寒くて工事が出来ないからだ、と答は剥き出しのリアリズムであった。白夜の国……、異邦人の描く身勝手な甘いイメージは、一蹴されてしまった。
 
  なるほど白夜の裏側は、陰惨だ。空が白むのがやっと午前十時ごろ、午後三時には暗くなり、しかも厳しい寒さ。人々は、この暗く長い冬の時間を、どのようにしてすごすのだろう。この国の図書館の利用率がすこぶる高いのも頷ける。
  イプセンの「人形の家」は、こんな自然環境の中で書かれた。
  そういえば、オーケストラーという多彩なマス楽器合奏の構想も、ここノルウエーで創始されたという。長い長い夜のやりきれない神経を癒す手段を、自ずから積極的に講じた結果、世界に通じる芸術手段になったのだろう。

 イプセンの戯曲にグリーグが作曲した「ペール・ギュント」も、夢を追いかけて世界中を旅した男の話である。私には、現実の寒く長い夜から逃れようとして、余所の国々に憧れたのではないかと思える。

  この国では、思考する女は家を捨て、野心を抱く男は国を捨てることになりそうだ。
  ムンクも、月の光が水に映る情景ばかりを描いていた時季がある。「叫び」は短い夏の夕暮れかと思うと、声なき声が実感となって皮膚を振動させる。

 春分・秋分が一日の昼夜を等分し、季節に裏切られることのない日本の国で、俳句という短い詩型が発達したのも、自然環境のなせる技ではなかったか。冒頭に挙げた久女の句は、自立した精神の持ち主でありながら、家を捨てることなく、ささやかな家事の日常に甘んじている状態を、十七文字に見事に凝縮して表現している。白夜の国の過酷な自然支配の下なら、上五がもっと違った字句になっていたかもしれない。
 
    雛罌栗(こくりこ)の北限に佇ち一期一会         善子

  北欧の旅で得た一句。最新の「角川俳句大歳時記」に採用された。
  あの国で会ったのは、そして、もう二度と会うことがないのは、一体、誰だったのだろう。
                                         以上

(本文及び俳句の表現で、ふりがな表示が括弧書きになっているのは、インターネット・システムの制約のためです。ご了解ください・・・事務局)