2006年4月のエッセイ「俳句は東洋の眞珠である 日野草城」(服部緑地公園と草城句碑) 室生幸太郎 日野草城が太平洋戦争中の沈黙を破って、俳壇に復帰したのは、終戦の年の秋のことでした。戦争中、進歩的な考えを持つ俳人たちは、軍部からにらまれ、草城は俳句を作ることも出来なくなっていたのです。 終戦まぎわ、アメリカ軍の空襲を受け、草城の自宅は全焼、家財も蔵書もすべて灰にしてしまいました。句集の草稿も焼失し、そのために第5句集は、結局日の目を見ることなく終わりました。草城は大阪の周辺の知人を頼って、住居を転々としていましたが、7回の転居のあと、ようやく落ち着いたのが豊中市の岡町でした。 岡町に移って間もなく、草城は肺結核に罹り、没するまで10年にわたる長い病床生活を強いられることになります。病気のため会社を休職になり、休職期間が満了して退職、無収入になりました。当時は食料をはじめあらゆる物資が不足し、急激なインフレが進み、草城の生活は窮地に追いやられます。その窮乏に耐えながら、草城は珠玉の俳句を多く残しました。「俳句は諸人旦暮の詩(もろびとあけくれのうた)である』の言葉は、日々の病床生活の中から生まれたものです。 草城の句碑が豊中市の服部緑地公園に建てられたのは、さまざまな苦境を乗り越え、円熟の境地に達した晩年の草城俳句の出発点が豊中市にあったからです。また、この公園の明るい雰囲気が草城俳句の世界にふさわしいと考えられたからでもありました。 昭和38年11月に建立された句碑は、公園の中心部にある円形の大花壇のすぐそばにあります。黒御影石、スェーデン紅石、白稲田石の色の異なる切石3枚を屏風のように組み立てたモダンな句碑です。 春暁やひとこそ知らね木々の雨 松風に誘はれて鳴く蝉ひとつ 秋の道日かげに入りて日に出でて 荒草の今は枯れつつ安らかに 見えぬ眼の方の眼鏡の玉も拭く の春夏秋冬の各一句と無季の句、それに俳句は東洋の眞珠であるの箴言が刻まれました。 今年は草城の没後満50年にあたります。 以上 (室生幸太郎編「日野草城句集」角川書店刊の第2刷が発行されました。) (本文及び俳句の表現で、ふりがな表示が括弧書きになっているのは、インターネット・システムの制約のためです。ご了解ください・・・事務局) |