吟行リレー)小林かんな「浜大津-大津城跡-」

吟行リレー 小林かんな
浜大津-大津城跡-

 滋賀県各地は古くから歴史の舞台となってきた。最近、その中で京極高次が個人的に気になっている。

 名門京極氏は応仁・文明の乱で衰退し、本能寺の変の頃、当主高次は事情があって明智光秀についていた。光秀が秀吉に討たれた後は潜伏していたが、秀吉の側室となった妹・竜子の嘆願により助命されたという。

 その後、高次は近江高島郡二千五百石を皮切りに加増され、茶々の妹・初と婚姻。文禄四年には大津城主となる。軍功もあって従三位・参議に任じられるなど目覚ましい出世を遂げ、「蛍大名」と揶揄された。実力による出世ではなく、妹や妻の縁故による七光りと見られたのだ。

 秀吉没後、徳川方と反徳川方の対立が深まる中、双方と縁戚関係にあった高次は両陣営から加勢を求められ、板挟みとなる。いったん西軍に属して東へ進んだものの、ほどなく翻意して東軍に寝返り、大津城に籠った。そのため、西軍の大軍に包囲され、三井寺付近から砲撃を受けたと伝えられる。

 大恩ある秀吉の後継者を見捨てて徳川方についたという点を見れば、高次は裏切り者とも映る。しかし、それは平和な時代に生きる私たちの価値観から見た一面にすぎない。高次はきっと京極家が戦乱の世を生き残る可能性に賭けたのだろう。家康に高く評価された京極家がその後どのような道を歩んだかは、ぜひ調べてみていただきたい。高次が籠城した大津城は、現在では京阪びわ湖浜大津駅近くに城跡の石碑が残るのみである。曳山展示館の裏手には外堀の石垣がわずかに残り、大津城の面影を今に伝えている。

 この城跡を囲む町並みは、江戸時代から続く大津祭の舞台でもある。大津祭の本祭は十月。十三基の曳山が町を巡行し、からくり人形が辻々で披露され、粽が撒かれる。大津宿は草津宿で中山道と東海道が合流した後、東海道終点・三条大橋へ至る最後の宿場町である。旅人たちは土産物として大津絵を買い求めたに違いない。琵琶湖の水運の要衝であった大津港では各地から集まった荷が積み替えられ、京へと運ばれた。

 祭りのにぎわいを楽しんだ後、琵琶湖のほとりに立てば、光秀、秀吉、高次ら戦国武将たちの栄枯盛衰と、その後受け継がれてきた町の歴史に思いを馳せることができるだろう。

 噴水や命みじかく繋ぎきし  小林かんな


小林 かんな(こばやし かんな)
1990年より『天街』国武十六夜・野間口千賀に師事。2018年より『ユプシロン』に参加。現代俳句協会会員。