特集 西東三鬼)『三鬼』を読む 中山奈々「熱に近づく」

熱に近づく 中山奈々

 「ファミリーヒストリー」という番組をご存知だろうか。NHK総合で不定期に放送されているドキュメンタリー番組である。各界で活躍している著名人の父母はもちろんのこと、その両方の先祖の来し方を辿っていくのだ。著名人といえど、その家族の多くは市井のひとである。目を引くような、あるいは波瀾万丈でドキドキさせることばかりではない。質素でありふれていて取るに足りないと思われがちなその生活、人生でさえ、しかしやはり誰かに繋がる。その流れというものは地味であろうとこれ以上ない貴重なものなのだ。

 その貴重な繋がりを詳らかにしていくのは、関係者への取材や資料(史料)からである。それがときに国内にとどまらず、海外への取材、資料に及ぶ。この思いもよらぬ繋がりは驚きとともになぜか懐かしさを覚えるのである。自分のなかにある、自分でも解釈できない何かーそれは喉の渇きに近いーがそれによって解かれていく感覚。ヒント程度にしかならないこともあるだろう。だからどうしようもなく、ずっと喉が潤うような、息苦しさから抜け出せる場所を求めるのである。

 そのために小説のなかで三鬼は「中年ドンファン」と言われるように数多くの女性を渡り歩く。これは〈おそるべき君等の乳房夏来る〉で有名な三鬼らしい一面だ。しかし本当に一面すぎない。というよりときどき三鬼がおいてけぼりを食らっていることがある。

 それは例えば、三鬼のシンガポール時代の話である。シンガポール時代というより、何故三鬼がシンガポールへ行くことになったのか。何故シンガポールのあらゆるコミュニティに入ることが出来たのか。「売れない役者とか詐欺師にみられる」ことがある三鬼の風貌、「この島国のせせこましい風土」の息苦しさが、大陸への熱となっていた部分もある。しかしそれだけではなかった。もっと昔の、先祖からの繋がりがあったのだ。小説のその箇所がふいに脳内で余貴美子さんのナレーションに切り替わる。そう「ファミリーヒストリー」である。

 先の三鬼がおいてけぼりを食らっているとは言いすぎだが、三鬼の怪しさを描こうとすると自ずと「ファミリーヒストリー」となる。そしてあの時代、今現在も三鬼は怪しい人物という印象が強いが、三鬼以外に出てくるひとたちも何かしら変だ。何かしらの違和感がないひとなどいない。そうは見えないように見せている、取り繕っているだけなのだ。戦時下なのにわたしたちが浮かべる戦争の描写が一切ない。あの当時に生きて戦争に関係していなかったひとなどいないのである。戦争の激化はもっと後だというかもしれない。特高に追われているということを除けば、平穏、なんなら少し華やかな日常が進んでいく。小説だからか。いやでもやはりあの時代はすべておかしかったのかもしれない。そのおかしさに俳句と、大陸の熱が入ってくる。熱に侵されればさらに喉が渇く。しかしどうやっても渇きが治らない。だからとりあえず熱をさげることにするだ。〈氷枕ガバリと寒い海がある〉。

 寒い海ではないけど、三鬼と虚子が海を前に話す【第十五章 予言】では、くるりの「remember me」が脳内に流れる。言わずもがな、「ファミリーヒストリー」である。となると、これの小説は西東三鬼の、斎藤家のファミリーヒストリー、俳句のファミリーヒストリーと言えなくもない。小説ゆえに一次史料とはならないが、三鬼やあの時代の熱に近づくための最大の近道であることは確かである。


中山 奈々(なかやま なな)
1986年大阪生。俳句甲子園をきっかけに作句開始。「百鳥」同人、「淡竹」所属。