特集 西東三鬼)堺谷真人「算術の少年」

算術の少年 堺谷真人

 其の頃、私は本業に薩張身が入らず、赤道に近い英国王領植民地の片隅で気儘な高等遊民の日々を送つてゐた。パナマ帽に麻の背広、細い竹のステツキを手に、来る日も来る日も散歩ばかりしてゐたのである。

 西洋建築の商店が櫛比する繁華街から香煙濛々たる道教寺院の巷へと私は歩いた。緑蔭の涼しい庭園(ガアデン)から出船入船で賑はふ港へ、そして教会や図書館の建ち並ぶ公序良俗の地から掏摸(すり)や密売人の跋扈する怪しげな私娼窟の近辺までも私の靴は選り好みなく踏破した。

 そんな私の周りには何時しか馬来(マレイ)人の子供達が集まつて来るやうになつた。初めは物乞かと鬱陶しく思ひステツキで逐ひ払つたこともあつた。戯れに銀貨を噴水に投げ込み、競争で拾はせたこともある。然し或る時卒然として私は了悟した。彼等は何も金品が欲しいのではない。此の日本人の振舞が只醇粋に物珍しかつただけなのだ。

 慥かに私は一風変つた特色を有する歩行者であつたかも知れない。果樹園通りの人混みでチヤツプリン歩きを真似てみたり、椰子の木蔭でダンスのステツプを復習(さら)つてみたり、時には帽子にステツキを載せて釣合を取り乍ら古い歌を唄つてみたりした。異国に暮らす気散じな境遇から私は人目を憚ることなくこんな突飛な振舞を娯しんだが、それが好奇心旺盛なる馬来人の子供達の目に留まつたといふ訳らしい。

 暫くすると子供達の中に顔馴染が出来た。一人はAといふ名の男の子だつた。利発さうな目がくりくりとよく動く小柄な少年だつた。裕福な香料商人の息子であるAは一応英語が話せた。親兄弟と活動写真を観るのが好きで、殊に喜劇王チヤツプリンを神の如く崇拝してゐた。私が例のドタバタ歩きで舗道を歩くのを見つけて彼は狂喜した。山高帽とパナマ帽、つんつるてんの黒い上着とゆつたりした白麻の背広。道具立てこそ違へ、帰するに処無き漂泊者の滑稽と悲哀とは此の早熟な少年の目を捕へて放さなかつたのである。

 私は人混みの向かふで手を振る彼に気づくと殊更大仰な所作をして見せた。既にして千両役者の気分であつた。軈て彼は私の弟子となつた。読み捨ての新聞をステツキでひよいと引掛け、仔細らしく記事を読む真似をすると、彼も細い棒切で同じことをした。風に飛ばされさうになる帽子を押さへて踏鞴(たたら)を踏むと、彼も並んで踏鞴を踏んだ。そして顔を見合せてげらげらと呵々大笑した。

 其の内Aは時折私の診療所に遊びに来るやうになつた。虫歯を削る鑢(やすり)だの、抜歯に使ふやつとこだのといふ物騒な商売道具に彼は興味津々だつた。或る日、私がやつとこを弄び乍ら、おいぢつとしないか、さもないとお前の歯を全部抜いてしまふよと真顔で言ふと、彼は心底怯えて窓から逃げ出した。冗談、冗談。笑顔で打ち消しても暫く戻つて来なかつた。

 Aは学校の成績も概ね良かつた。ただ算術だけが苦手だつた。私は暇に任せて彼の宿題の相手をすることがあつた。日本から来た俄か喜劇役者の弟子として路上でお道化る彼は実に明朗快活であつた。元気其のものであつた。然し、算術の宿題を前にした彼は世界中の憂悶を一身に背負うた殉教者の顔をしてゐた。青菜に塩であつた。彼が計算問題を解いてゐる間、私は壁際の籐椅子に身を預けてうとうとすることがあつた。

 或る時、私はこのやうな午睡の夢に母の俤を見た。遠い昔、父の臨終の場面だ。若かつた頃の母が死水を取つてゐる。長患ひで骨と皮ばかりに痩せ細つた父を母は気丈に看病した。が、薬石効無く父は到頭死んでしまつた。

 母は死水を取る時も気丈だつた。まるで一廉の茶会を取り仕切る老練な亭主のやうに淡々とまた堂々としてゐた。然し、父の唇を十分に湿し終つて羽箒を隣の親族に渡さうとした刹那、羽箒の先が細かく顫へだしたかと思ふと母の目から大粒の涙が零れ落ちた。母は終に嗚咽を漏らし始めたのである。

 そこで目が覚めた。まだ焦点の定まらぬ視線を四隣に泳がせると、Aが机に向かつた儘、声を殺して泣いてゐる背中が見えた。算術のノオトが泪で濡れてゐた。実家の香料店を嗣ぐべく生れる前から運命づけられた彼にとつて、算術が出来ないばかりに上級学校に進級出来ないといふ事態だけはどうしても避けなければならなかつた。余程の重荷だつたのである。

   ◆        ◆        ◆

 Aとの別れは唐突にやつて来た。

 或る午後、香料店の番頭が前触れも無く診療所を訪問した。貴殿は内の坊ちやまと果樹園通りの路上で奇妙なことをやつてゐるさうだが、それは本当かと訛の強い英語で番頭は訊いた。然り、彼は私の誇るべき弟子であると私は答へた。番頭はやれやれといふ風に首を竦めた。そして切り出した。

 実は学校の教師が貴殿と坊ちやまとの奇行を目撃し、旦那様、つまり坊ちやまの父上に報告なすつたのです。旦那様はいたく御立腹で早速坊ちやまを呼び出し、きつく折檻なさいました。お前は何といふ情けない奴だ。よりにもよつて紳士淑女の集まる場所で昼間から飛んだり跳ねたり猿回しの猿みたやうな真似をするとは。恥を知れ。跡取のお前が此の為体(ていたらく)では延いては店の信用にも係はることである故、今後一切、あの素ツ頓狂な日本人に逢ふことは罷りならぬ。坊ちやまは一瞬何か口答へしかけましたが、続けて旦那様がかう畳み掛けるのを聞くと其の儘黙つて仕舞ひました。いいな、儂(わし)の言付を守るのだ。若し約束を破つたら、金輪際お前を活動写真に連れて行くことはないと思へ。

 それ以降、Aは私の前に二度と再び姿を見せることはなかつた。私は索然たる思ひであつた。淋しかつた。彼は何時しか故郷喪失者である私の無聊をよく慰めてくれる無二の友人となつてゐたからである。

 算術の宿題にしのび泣いた日、Aは鉛筆を一本診療所に置き忘れて行つた。計算問題が解けずに呻吟してゐるとき、彼は我知らず鉛筆の軸を齧る癖があつた。忘れ物の鉛筆にもくつきりと彼の歯形が付いてゐた。これは右上の犬歯の跡だな。職業柄そんなことをぼんやりと思ひながら私は窓の方を見た。怯えてそこから逃げ出したときのAの脚は浅黒く、そして棒のやうに細かつた。

 扨、Aとの交遊が途切れて間もない或る日、郵船の支店で働いてゐる兄から珍しく晩餐に誘はれた。私は元来場末の怪しげなパブやカフエが好きで、格式張つた場所には滅多と近づかないことにしてゐたのだが、此の時はホテルのレストランに呼び出されたのでそれなりの身支度をして出掛けた。

 兄は一人ではなかつた。眉目秀麗、長身の紳士を紹介された。S氏といふ。私より二、三歳若さうなS氏は関西の裕福な家の出身で英国に留学し、ケムブリツヂで歴史学を研究してゐたのだが、父上の経営する棉花商社が倒産の憂目に遭つたため、已む無く帰国する途中当地に寄港したのだといふ。此の人はいづれ大業を成すに違ひないから、是非とも御前に引き合はせて置きたい。兄はそんなことを言つた。

 私はS氏と他愛もない世間話をした。Aとの奇妙な交際に就いても話した。英国暮らしが長いS氏は日本語よりも寧ろ英語の方が達者だつたので、我々の会話も気が付くといつしか横文字となつてゐた。S氏は洗練された英国紳士の物腰と如才のない笑顔を所有してゐた。然し、彼の眼光の奥に潜む狷介孤高、否、もつとブルウタルな何かを私は決して見逃さなかつた。家業の世襲といふ義務の重圧に耐へてゐるAと、家業が衰微した為に学究の道を断念せざるを得なかつたS氏。二人の境遇は全く相似てゐないにもかかはらず、正体の解らぬ何者かと闘ふべく運命づけられてゐるといふ意味で、私は彼らに対して同種のシムパシイを覚えたのである。

 三箇月許りが経つた或る曇つた蒸し暑い日の午後のことである。私は市街地から裏山の方に向かふ一群の葬列に遭遇した。路傍に佇んで何気なく見物をしてゐると、以前診療所にやつて来た香料店の番頭が其の葬列に混じつてゐるのに気付いた。私は何となく胸騒ぎがし、見物の一人に訊ねた。あれは一体何処の誰の御弔ひなのかね。前歯の黄色く欠けた老婆が声を低くして答へた。〇〇香料店の坊ちやまですよ。まだ小学生なのに御気の毒なことをしました。今、目の前を通り過ぎて行つた棺の中に横たはつてゐたのは、紛れもなくあの算術嫌ひのA少年だつたのである。

 後日、出入りの雑貨商から聞いた所では、Aは腸窒扶斯(チブス)に罹つて死んだとのことであつた。避病院に収容された為、両親も死目に遭ふことはなかつた。息を引き取る直前、看護婦に向かつて、若し僕が死んでも後生だから歯は抜かないで下さいねといふ謎めいた言葉を残したらしい。

 なあに意味も何もありやしません。大方熱の所為(せゐ)で囈語(うはごと)を口走つただけでせう。雑貨商は気のない調子で話を打ち切ると巻烟草を揉み消して立ち上がつた。

 算術の少年しのび泣けり夏  西東三鬼

(完)


堺谷 真人(さかいたに まさと)
1963年 大阪生まれ。大阪大学文学部卒業。中国哲学専攻。1987年から1993年、堀葦男に師事。元「一粒」創刊同人。「-俳句空間-豈」同人。現代俳句協会会員。大阪俳句史研究会会員。