関西現代俳句協会

■2023年2月 青年部連載エッセイ

私の極愛句集(8)
白の彼方へ 『毛呂篤句集』毛呂篤

小川楓子

 『毛呂篤句集』は『第四思考』『俳白』『白飛脚』『灰毒散』『転号』『悪尉』の6冊の句集から成る。深いワインレッドの革張り、天金加工の22部のみ作られた特装本は、古書店を営んでいたという毛呂らしいこだわりを感じる。なお、普及版は600部刊行している。

 毛呂篤は「寒雷」等を経由して「海程」に入会した兵庫の俳人である。第5句集『転号』の跋文を記した阿部完市は毛呂より年少であるが「海程」入会は阿部の方が早い。1967年の「海程」誌上には、毛呂が会員として

    きさらぎの鳥恐ろし有馬へ二里
    秋はこの色竹の中の朝はなれる

 同人の阿部完市は

    少年来る無心に充分に刺すために
    奇妙に明るい時間衛兵ふやしている

を発表している。

 『転合』の跋文で阿部は、毛呂と大阪の旧飛田遊郭を歩き回って、串カツとドテ焼き仕上げにお好み焼を食べて遊んだことを回想している。「道の丁度真中を歩いて、両側のどちらの店先からも均等の距離のところを少し足早に歩くようにした。そんな私をみて、毛呂はしきりに笑っていた。」という。射程距離を測りながら、自らの作風を変化させ、緻密に文体を練っていった阿部。奔放さを持ち味としながら、句集ごとに変化を遂げ、剽軽さの奥に深い思索が見え隠れする毛呂。そんな二人の夜の散歩姿を思う。

 毛呂の代表句として挙げられることの多い作品が収められているのが第3句集『白飛脚』である。

    松が枝の角度四〇に寝てみたや
    従者は烏左大臣М氏へ長雨
    芭蕉忌や遊んで遊びたりないと思う
    春の橋からこれほどの景あるかハアー
    才覚であらん阿礼―助けてー

 上方の艶のある5句を選んだ。烏を従えた左大臣などとおどけて、松の枝ぶりも色っぽいとほろ酔い気分で思っている。そして、ハアー、阿礼―助けてー、とはしゃいでいる、ようにみえるが、毛呂は、ただ遊んでいるわけではない。4句目は、春の景がいかにも絵に描いたような「俳句的風景」であることを面白がっている。ハアーという感嘆には、やれやれというため息が少し含まれているかもしれない。5句目は、知恵や才気をかわして、おどけている。ここには「遊んで遊びたりない」毛呂の軽やかな反骨精神がある。

 『白飛脚』の跋文で金子兜太は、言葉や技法の体験を貪欲かつ旺盛に体に取り込み、息にまでその精がしみこんでいると記す。一方で、塚本邦雄は、作品に惚れ込むがゆえに「才覚であらん阿礼―助けてー」について、こうした作品を1句も今後読みたくないと憤っている。たしかに先に挙げた作品のみで毛呂篤を語るならば、作家の表面だけをなぞることになってしまう。

    梅の外から粒子かんかんと夜明け
    粒もかんぴょうもひかりの穴だ鑑真

 この世の最も小さな構成単位である素粒子は、通常、目で見ることができないが、たしかに存在しているという。毛呂の「みる」ということへの執念は、視覚に留まらない。耳でみて、舌でみて、鼻でみて、指でみている。そして、さらにその奥の感覚を探ることで粒子まで捉えようとする。1句目、梅に手を伸べると香りがふわりと鼻をかすめる。花びらの柔らかさを愉しんでいる背中に夜明けの冷たい空気が粒子となって回り込む気配がする。それは「かんかん」という音となって耳に届いて来る。そのような光景が思い浮かんだ。2句目は、唐招提寺での吟行句である。金子は「毛呂は、鑑真和上の双の瞼の裏にある瞳孔を感知していたのだ。二つの瞳孔。しかしそれは視力を失った、光だけを感じる孔(と毛呂は推察している)だから、視る物の像はない。像は結ばず、すべてが「ひかりの穴」としてある。「粒」のような光点も、「かんぴょう」のような紐状のびらびらしたものでも。」と片方の眼を病む毛呂自身の体を重ね合わせ評している。

    鑑真のやまとやわらかきや摩訶
    陸よ海よ空よ鑑真には火なり

 『白飛脚』において鑑真の作品はさらに2句ある。1句目、海を渡り、視覚を失った鑑真であるからこそ到達し得た人智を超えた境地への憧れが表れている。「やまとやわらかきや摩訶」という夢見心地のように柔らかな措辞が目をひく。2句目は、困難に出会いながら強い意志を持って渡来した鑑真をそして自らを「陸よ海よ空よ」と呼びかけ鼓舞しているのではないだろうか。「火なり」には、鑑真に傾ける毛呂の情熱が感じられる。さて、「陸よ海よ空よ」という措辞から、まったく印象の異なる第一句集『第四思考』の一連を思い起こす。

    風流や山を殺して人殺し
    陸軍や陸を殺して人殺し
    海軍や海を殺して人殺し
    空軍や空を殺して人殺し
    戦争や地球殺して人殺し

 これらの作品には、一切おどけ、いなしがない。先の戦争を経験した者が突きつける「人殺し」は、加害者であり被害者である当事者の拭っても拭い去れない思いが込められているのではないだろうか。『白飛脚』の鑑真の一連の背後には、戦争を経て生きる痛みがありながらも「ひかりの穴」から一筋の光が差して来ることを渇望する毛呂の切実な姿がある。

    天に塔あり老鶯を白と決め
    白色峠で白い飛脚とすれちがう

 1句目、旧約聖書の「創世記」に登場するバベルの塔が思い浮かぶ。しかし、具体的な逸話は想像しない方がいいだろう。天上世界の塔の存在を夢想し、しらべに身を任せることで日差しの中の老鶯を読者は感受できる。「白と決め」にはすらりと抜き身の刀を抜いたような印象があり潔い。2句目、浄土に行くことを願う清浄な心を表す白い道を白装束で駆けて来る使者であろうか。生と死は隣り合い、ときにすれ違いながら何気なく日常にある。白に関する作品は、同人誌『ゴリラ』に遺された最晩年の作品にも登場する。

    白盲の海よ一私人として泡か

 目で見ることができないが、確かに存在しているものを捉えようと「遊び」という闘いを続けた毛呂の素顔が表れているように感じる。「白盲の海」には死者たちの気配が漂っており、そこへ泡として消えるのを待つ老兵のような表情を浮かべながらも毅然とした一私人、そして、一詩人である毛呂篤という作家の絶唱である。

 さて、毛呂が最晩年に参加した同人誌『ゴリラ』の読書会を2021年から若手数名で行っている。「海程」に所属した谷佳紀と原満三寿による『ゴリラ』を読むことで、当時の前衛俳句とはどのようなものであったのか、紐解いてゆく試みで、毎回活発な意見が交わされている。同時代を生きた「海程」同人でなければ読み取ることが難しい点はあると思うのだが、これまで作品に触れて来なかった今の若手がどのように感じるのかを大切にしている。ご興味のある方は、webマガジン「週刊俳句」の記事をご覧頂けたら幸いに思う。

■『ゴリラ』読書会 創刊号~5号を読む〔前篇〕
■『ゴリラ』読書会 創刊号~5号を読む〔後篇〕
■『ゴリラ』読書会 第2回 6号~10号を読む〔前篇〕
■『ゴリラ』読書会 第2回 6号~10号を読む〔後篇〕
■『ゴリラ』読書会 第3回 11号~15号を読む〔前篇〕
■『ゴリラ』読書会 第3回 11号~15号を読む〔中篇〕
■『ゴリラ』読書会 第3回 11号~15号を読む〔後篇〕

私の極愛句集(8)白の彼方へ 『毛呂篤句集』毛呂篤

小川楓子
1983年生まれ。「舞」会員。2022年に第1句集『ことり』(港の人)を上梓。

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