関西現代俳句協会

■2019年8月 青年部連載エッセイ

世界俳句(5)
夢見る俳句(3)

堀田季何


 世界俳句とは一種の切れを伴った有キーワード自在律句に等しいと以前書いたが、今回は、日本語俳句を世界の人たちが読むための翻訳について、三つの点を基にかいつまんで述べてみたい。忘れてならないのは、日本語俳句に限らず、世界百カ国以上で書かれている俳句は、世界では翻訳を通して読まれているのだ。

 第一に、翻訳作品は選ぶものである。翻訳者は最大限努力するが、それでも翻訳に向いていない作品がある……多い。特に、日本語は系統関係が依然不明な孤立言語の一つであり、名句秀句を訳しても名句秀句にならないことは少なくない。仮に翻訳したとしても、肝心の魅力が翻訳不可能であるために徒労に終わってしまう類である。筆者は、翻訳する対象を選ぶことも翻訳者の仕事だと思っている(選ぶ権利がある場合に限られるが)。

 では、どういった要素が句の魅力になっていると翻訳の障碍になるのか。日本語俳句を例にしよう。まず、韻律である。押韻が魅力の句とかはさっさと諦めたほうが良い。印欧語の中で近い言語だと韻律もある程度移せるが、日本語俳句では無理である。意味だけ訳して、アルファベットなどで音を併記する手もあるが、悲しい。無論、音数を維持しても韻律は別物であり、言語ごとの韻律感はどうにもならないので、五七五を五七五に訳すのは愚である。英語で五七五に訳された句を読んだところで、日本語で基本定型とされている五七五の句を読むのとは違う。また、どの言語にするかによるが、文体は概ね訳せないし、語順が変わることも日常茶飯事である。当然、これが致命傷になる俳句も多い。語彙の問題もある。切字や詩語だけでなく、根本的な語彙が翻訳する言語にないことも覚悟すべきである。「おかげさまで」「いただきます」のきちんとした英訳がないことは有名だが、日本語に多数存在しているオノマトペも大半が訳せない。植物、魚、気象の名前は、存在しないか学名になるか長ったらしくなるか。日本語では一般的な語彙でも、別の言語圏ではラテン語ベースの長い学名しかなくて、翻訳すれば俳句として終ってしまうこともある。同じく、日本情緒や行事の類は訳しづらい。読者に解ってもらうためには註釈が必要になってしまう。当然、季語の本意や本情は伝わりづらく、その季語を訳せたとしても、読者に季語を本意や本情を通じて句を理解してもらうことは最初から諦めた方が良い。さらに、日本語は単数か複数かわかりにくい言語であり、作者自身がこだわっていない句も多いが、英語などに訳す際は単数か複数か決めなくてはならない。

 このような困難がつきまとうが、何も訳さないわけにはいかない。言語的制約があっても、魅力が伝わりそうな作品を選ぶべきである。経験から言えば、特殊な感覚や身体的な感覚は伝わりやすい。造型俳句的な鮮烈なイメージも伝わりやすい。欧米にも共通する思想や性癖も伝わりやすい(但し、アニミズムのような日本と欧米で似て非なる受容れられ方をしている概念は難しい)。内容の社会性や政治性は概ねすぐに伝わる。うまく訳せば、切れも残せる。逆に、そうでない句、特に韻律や言い回しが命の句は、作者の代表句であっても諦めることをおすすめする。

 第二に、翻訳できそうな作品を選んだ後は、優れた翻訳をしなくてはならない。そして、優れた翻訳には優れた言語能力だけでなく、俳句の知識が重要である。俳句に精通していない訳者だと、著名な文学者や小説の翻訳者であっても駄目な訳を量産してしまう傾向にある。三段切れになってしまったり、俳句にしては長すぎる翻訳になってしまったり、誤って瞬間性や切れを消してしまったり、対象の句の肝が解っていない訳になってしまったり、という例は枚挙に遑がない。作者自身が付ける訳がひどいことも多い。そのため、俳句翻訳の適任者は世界中、日本中で根本的に足りない。人材不足のため、別言語を経由して、訳の訳をしなくてはならないこともある。結局のところ、訳は訳だと割り切って、語順の工夫などをしながら、原句の魅力を引き出せるよう最善の手を尽くすしかない。また、日本語の俳句をある言語に訳すことその言語で俳句を書くこととは違う、という前提を理解しておくことも大事である。俳句の定義や構成要素は世界でも異なっていて、作句するときは重要だが、訳の場合はそれらに固執する必要はない

 第三に、優れた翻訳も大量に流通させなくては空しい。優れた翻訳があればそれでおしまい、ではない。優れた翻訳も、流通しなければ句の知名度・認知度は上がらず、世界的には評価されにくい。「優れた作品はファンたちが、世界中が勝手に翻訳する」というのは迷信である。先に知名度・認知度があってこそ世界中がどんどん訳してくれるのであって、その逆はない。実際、近代以降の日本人俳人は大半が海外で無名である。高濱虚子でも金子兜太でも一部の国、一部の愛好者しか知らず、蛇笏賞受賞者でもその殆どは世界にいる何十万人の俳句愛好者に知られていない。世界的に知られている俳人は、いまだに近世の芭蕉である。海外の日本学者たちが長年に亘って採り上げてきたこともあるし、世界中の学校で教えられていることもある。なお、海外で日本人の作品を流通させるとしたら、なるべく多くの言語に訳すのが大切だが、英語を通じて訳される例も多いので、英語は外せない。あと、多くの読者がいる媒体で広まることも大事になってくると思うが、それができた俳人は殆どいない。海外の俳句愛好者たちが出している専門媒体では不充分だと思う。ついでに言えば、日本の近現代の俳句史も伝わった方が良い。多くの国における俳句に対するイメージや理解は近世の発句で終わってしまっているし、日本ですでに実験されたり詠まれたりした句を知らずに海外の人たちが現代の日本語俳句の翻訳を読むのは惜しい。良い詩だとは思ってくれても、それ以上の理解が伴っていないことが多いし、何より、類想類句を判断したり、良い句と悪い句の差をきちんと見定めたりできる眼が、一部を除き、海外の愛好者たちでは養われていないからだ。

 最後に、いくつかの句の翻訳についてコメントしてみたい。

    古池や蛙飛びこむ水の音         芭蕉

 日本では俳句でなく、発句だと認識されているが、海外では古典俳句だと認識されている。いや、古典どころか、俳句とはこういう句のようなものだと理解されている。しかし、海外での紹介文や鑑賞文を読むと、蛙が春の季語だと気付いている海外の読者は1%もいない上、仏教的な悟りの瞬間のように捉えているものもあり、日本人と違った捉え方をしていることに気づく(日本でも句の解釈が割れているが)。比較的訳しやすい句ではあるものの、英語だけでも百近い訳が存在していて、蛙が単数のものと複数のものがある。

    よく眠る夢の枯野が青むまで      金子兜太

 この句には「slept well/ till the chill barren field in my dream/turned green」「sleeping well/until the dream’s withered moor/goes green」等いくつかの訳が存在する。海外の読者には、これが芭蕉の句を踏まえていることはまず判らない(芭蕉の訳を読みこんでいる読者なら別だが)ので、どう訳しても魅力が減じてしまう。その上、英語だと時間や順序の感覚がはっきりしているので、作中主体が起きているのか(もはや眠っていないのか)、まだ眠っているのか、枯野が青みはじめる瞬間なのか、すっかり青んだのか、翻訳時に決める必要が生じる。上記の二つの訳は全く解釈が違っている。

    韓国の靴ながれつく夏のくれ      小澤實

 この句はGabi Greve氏による英訳「shoes from Korea/drift on the shore –/twilight in summer」という訳があるが、K音U音R音を執拗に駆使した音の面白さは消えてしまっている(翻訳不可能)。英訳にも残っている句の魅力は、「韓国の靴ながれつく」という状況の面白さだけである。なお、「夏のくれ」が「twilight in summer」と訳されたことで、濡れている靴が夕日に照らされていることが強調されていて、日本語よりも抒情性が増している気がする。

    ふはふはのふくろふの子のふかれをり  小澤實

 こちらは英訳に向かない。「韓国の靴ながれつく夏のくれ」よりさらに韻律に頼っている句であり、句意さえも韻律と相乗効果を上げるようになっている。英語には「ふはふは」に当たる言葉がなく、しかもこの句を「ふはふは」したような音の連続で訳すのは困難であると思われる。意味だけ訳すのはもちろん可能であるが、韻律が消えてしまったら句の価値は暴落すること必至。

    ただならぬ海月ぽ光追い抜くぽ     田島健一

 音と言えば、この句も翻訳は難しい。力技で「ぽ」に匹敵する奇妙な音を英訳に加えることはできるが、日本語で「ぽ」が醸し出している感覚も効果も絶対に訳せない。

    浅蜊の舌別の浅蜊の舌にさはり     小澤實

 この句は、意味を翻訳することは簡単だが、語彙の面でつらい。英語圏の居住者たちにとって浅蜊はなじみのない食べ物であるため、一般的な語彙がない。「Japanese littleneck」「Manila clam」「Ruditapes philippinarum」のどれかを当てることになるが、どれを当てたところで英語圏の読者にはイメージが湧かない。ただの「clam」にするしかない(これは蛤のような食用の二枚貝全般を指すので正確ではない)。それでも、普通の英語話者にはクラムチャウダーの「クラム」のイメージしかないし、(生の魚介類に接したことのないアメリカ人等は非常に多いので)浅蜊の「舌」という概念も伝わらない読者が多いので、註釈などで説明するしかなく、それでは、訳したところで大して面白いとは思われないだろう。

    月は春かつての最寄駅に降りず     佐藤文香

 この句は、意味は大体訳せるが、「月は春」という言い回しの面白さは訳せない。それゆえ、翻訳では「かつて」という次の言葉が活きて来なくなってしまう。

    ひあたりの枯れて車をあやつる手    鴇田智哉

 実は、この句は訳しやすい。語彙にも文法にも音にも言い回しにも翻訳上の大きな問題がない。純粋に、情景を変わった言い方で描写しているというだけで、何語に訳しても情景を変わった言い方で描写している句になる。だから直訳で良い。訳しても、原句のまま不思議な感じになるし、読者が意味を理解するまでに時間がかかるのも(その謎解きが句の眼目であるのも)そのままである。

◆「世界俳句(5) 夢見る俳句(3)」:
堀田季何(ほった・きか)◆

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