関西現代俳句協会

■2018年5月 青年部連載エッセイ

ろくじょうのやすみところ(2)
パリピ日本人のエクストリーム酒宴?
―曲水宴

御手洗靖大


 今年の春は、ずいぶんとあっという間に来たような気がいたしますね。私がこれを書いているころ、神田川のほとりの桜は満開でございました。今は早稲田にいるのですが、つい最近まで京都の大学に通っておりました。そうすると、桜の名所と言えば円山公園のしだれ桜となります。京都の春の宵の空気に誘われて、夜の高台寺界隈を散歩すると、円山公園から八坂の祇園さんに出ます。

 与謝野晶子が言うような、「今宵あふ人みなうつくしき」かと言われれば、そうとも限りませんね。大学も企業も新歓シーズンですから、そこら辺で酒が酌み交わされています。(今は飲酒の規制が大分厳しくなりましたけれども)。日本人の存在がはじめて記されたのは、『魏志』の「倭人伝」であるとギム教育で学びましたが、その部分を見てみるとこんなことが書かれています。

其の会同・座起には、父子男女別無し。人性酒を嗜む。
(引用本文は『日本大百科全書』小学館による。執筆者は佐伯有清)

 この「倭人伝」、読んでみると、日本人はけっこう厳しい身分社会を生きていたようです。そんな彼らが「父子男女の別無し」というのはすごい気もします。無礼講という言葉がありますが、うるさいことを言う人のいない飲み会は最高です(笑)。それにしても、古代日本人も酒の宴会が好きなんですね・・・。

 酒の宴会もいろんなものがありますが、平安貴族の催す宴と言えば、曲水の宴がありますね。くねくねと曲がりくねった川に杯を流し、自分の前に来るまでに歌を詠まねばならないという、とんでもない宴会です。「ここで一句」コールなんかよりもっとプレッシャーが強いですね。なんだか光源氏が、自分の屋敷である六条院でやってそうなイメージもあるのですが、古典文学の世界には曲水の宴はなかなか出てきません。源氏は雅楽の宴がおおいようです。

 現代では、日本の各地で曲水の宴が行われています。その中でも2016年から「再興」された、京都の北野天満宮曲水の宴は、私も一緒に勉強させてもらいながらプロジェクトに関わっています。このプロジェクトは、まず、曲水の宴ってどのようにおこなわれていたのか、というところから始まりました。

 平安のイメージが強いですが、日本で最も古い曲水の宴の記録は『日本書紀』にあります。それによると、西暦で485年に行われたそうな。ただし、ほんまにあったんか?と詰問されると、うーんどうやろなあ・・・となってしまいます。(『新編全集』でも疑問視されていました。)

 ただし、『続日本紀』には聖武天皇から桓武天皇まで続々と曲水の宴の記録があります。奈良時代には盛んに行われていたのでしょう。桓武天皇の次の帝は平城天皇。恒例となっていたのか、桓武天皇が崩御した月が3月であるから自粛しようという理由で、この御代に廃止されたと『日本紀略』にあります。(大同3年2月29日(辛巳))

 その約90年後、8代後の宇多天皇によって再興されます。そこで作られた菅原道真の漢詩も残っているということで、道真公の都での活躍を顕彰しようと北野天満宮は曲水の宴を平成の世に復興したのでした。

 今、わたしは、曲水の宴で作られた菅原道真の漢詩と言いました。あれ、和歌とちがうのん?そうなんです。曲水の宴で作られるのは、かつては和歌ではなかったようなのです。(実は、平安時代の和歌集の中に曲水の宴で詠まれた歌を集めたものがあるにはあるのですが、ちょっといわくつきなので、今回は取り上げません。「紀師匠曲水宴和歌」というものです。)

 時代が下りますが、平安時代の有名な記録でいうと、藤原道長の『御堂関白記』にも曲水の宴の記録があります。寛弘4年(1007年)、道長の屋敷である土御門第(つちみかどてい)で曲水の宴がおこなわれました。ちょっと読んでみましょう。

上達部来られ、座に就く。新中納言・式部大輔の両人詩題出だす。式部大輔、流れに因りて酒を(うか)ぶ、を出だす。之を用いる。申の時ばかりに天気晴る。水辺に座を立つ。土居に下る。羽觴頻りに流る。(略)夜に入りて上に昇る。(略)
 四日、文成る流辺に就きて清書す。(以下略)

(訓読は、山中裕編『御堂関白記全注釈 寛弘四年』思文閣出版2006年6月による。傍線引用者。)

 記事を読んでみると、詩題とあります。和歌じゃなくて漢詩なんですね。そして、羽觴にのせて杯を流しはするものの、まだ漢詩はできません。あれ、「上に昇る」って・・・室内に戻っちゃいましたね。
 そうして次の日である3月4日、やっと全員分の漢詩ができあがり、再び水のほとりでで清書をします。このときは、杯が自分のところに来るまでに作るわけではないのですね。

 この時代のお公家さんは日記をつけるので、道長だけでなく、この宴に参加した人も記録を残しています。藤原行成という方の書いた「権記」の同じ日付にもこのことが書かれています。気になる人は見てください。

 北野天満宮のテイストは、やはり「和魂漢才」なので、曲水の宴では漢詩と和歌が披露されます。京都には他にも曲水の宴を行っているところがありますが、そこでは和歌が詠まれています。


これが羽觴(うしょう)。お酒を運んでくれる鳥さんです。かわいいでしょ。

 もちろん、一般的に思われている、杯が巡り来るまでに詠まねばならないというルールは、記録に無いわけではありません。「公事根源」という室町時代の儀式書には、

文人ども、水の岸になみゐて、水上より盃を流して、我が前をすぎざるさきに、詩を作りて、其の盃をとりて飲みけるなり。
(引用本文は關根正直『公事根源新釈』六合館1903年7月による。)

と、定義されているので、そういうルールもあるのかなあ、ということが分かります。でも、和歌ならともかく、漢詩でできるのでしょうか・・・やっぱり文化人はすごいですね・・・。

 私が知る限りでは、上賀茂神社は冷泉家が、城南宮は現代短歌の歌人が呼ばれているそうです。それぞれ特色があっておもしろいですね。王朝文化の色が濃く、神事としての向きもありますが、昔から「人性酒を嗜む」と言われてきたように、それぞれの楽しみがあっていいのではないかと思います。宴ですものね。

 ちなみに、北野天満宮の曲水の宴には、私もずっと出ているのですが、私は作る人ではありません。何をするかというと、オープニングアクトとして漢詩をうたいます。

 前回は和歌をうたう披講というものをご紹介しましたが、漢詩もうたわれるんです。漢詩をうたうことを朗詠といいます。披講は歌の家の流儀がありますが、朗詠は雅楽の家の流儀です。音楽家の領域なので、漢詩にはそれぞれ楽が付けられました。曲としてあるのですね。紙というメディアしか無かった時代、うたうことを記録するのは大変難しいものでした(無いことはないんですよ)。なので、さまざまな淘汰や変形をくぐって今に伝わっています。

 当初はこのことをお話しするつもりだったのですが、さすがに今回は話しすぎたので、ここまでにいたしましょう。ごきげんよう。

主要参考文献 
山中裕『平安朝の年中行事』塙書房1972年6月
谷知子「『六百番歌合』「三月三日」題と曲水宴」『国語と国文学』2015年12月
大津透ほか編『藤原道長事典 御堂関白記からみる貴族社会』思文閣出版2017年9月
滝川幸司『天皇と文壇ー平安前期の公的文学ー』和泉書院2007年2月
なお、史料については、同志社女子大学名誉教授 朧谷寿先生のご教示をいただきました。ありがとうございました。

◆「ろくじょうのやすみところ(2) パリピ日本人のエクストリーム酒宴?―曲水宴」:
御手洗靖大(みたらい・やすひろ)◆

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