関西現代俳句協会

■2015年10月 青年部連載エッセイ

虚子と能(5)

中本真人


同郷の先輩池内氏が発起にかゝる「能楽」といふ雑誌が近々出るさうである。この雑誌は今将に衰へんとする能楽を興さんが為めに其一手段として計画せられたるものであつて、固より流儀の何なるを問はず、殊に囃子方などのやうやうに人ずくなになり行くを救はんとするのが其目的の主たるものであるさうな。(子規「病床六尺」三十三)

 明治35年(1902)4月28日、虚子の中兄池内信嘉が松山から上京してきた。信嘉と虚子の父である池内信夫は、松山の能楽の維持に力を尽くし、明治24年(1891)3月25日に没する。虚子が東京で文学活動を開始していたころ、信嘉は郷里で県会議員や伊予鉄道支配人などの要職を歴任していた。その一切をなげうって上京してきたのは、能楽の維持振興という父の遺志を継ぐためであった。父の活動が松山に留まっていたのに対して、信嘉は中央の能楽界の改革を志したのである。

 上京してきた信嘉は、しばらく虚子の家に滞在し、在京の能役者に協力を求めて回った。そして明治35年7月に雑誌『能楽』を発行し、能楽振興の第一歩を踏み出したのである。これに先立って信嘉は、病床の子規の許を訪れ、自分の志を子規に語っている。子規が「病床六尺」に『能楽』のことを紹介したのは、信嘉から直接能楽振興の決意を聞かされたことによるのだろう。これは子規の没する数ヶ月前のことであった。

 江戸期までの能楽は、家によって維持継承されていた。囃子方は囃子方の家系において、役者は役者の家系において、それぞれ父から子へ、子から孫へと芸が伝えられてきたのである。これは能楽に限らず、日本の伝統芸能全般にみられるスタイルであったが、信嘉は学校のような教育システムを新設して、新人を育成する仕組みを作ろうと試みた。具体的には、能楽倶楽部という組織を設立し、囃子方の育成を行ったことがあげられる。これはのちに東京音楽学校能楽囃子科に発展するもので、信嘉自身も教授となって後進の指導に当たることになる。さらに、興行も近世以来の方式を改め、「夜能」という平日の夕方から二番程度の構成を組むことで、一般にも見物しやすいようにした。このような信嘉の改革は、長い歴史を有する能楽界から相当な抵抗もあったようだが、一方で宝生九郎らの賛同を得て、少しずつ実を結んでいった。

 さて、信嘉が能楽の改革に取り組むことができた背景としては、まず何より信嘉自身が能楽に通じていたことが指摘される。これは、父の池内信夫の指導と影響が大きいだろう。さらに、信嘉の東京における活動の基盤としては、自宅を提供した弟の虚子だけでなく、長兄の池内政忠も経済的援助を続けたことが知られている。このようにみてくると、中央での能楽振興は、池内家および高浜家の事業でもあったといって過言ではないだろう。虚子自身は能楽復興に積極的に関与したわけではなかったようだが、兄の活動を支えることにより、中央の能楽界に関心を持つようになったのではないだろうか。

◆「虚子と能(5)」: 中本 真人(なかもと・まさと)◆


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