関西現代俳句協会

■2014年5月 青年部連載エッセイ

虚子と能(2)

中本真人



父さんは謡が好きだということが一般に知られている。父さんは実際謡が好きである。気分のすぐれぬ時や、腹具合の面白からぬ時などは一人で少し謡うと薩張りする。

 虚子「「謡が好き」というバトン」(『立子へ抄』岩波書店、平成10年)は、虚子が次女の立子に向けて書いた文章である。謡とは、能楽の実演と異なり、その詞章をうたうことである。虚子は、調子の優れないときなどに謡本を広げ、独り謡の稽古に励むことを楽しみとしていたことがうかがえる。

 虚子の日常の業務は、作句と選句、あるいは雑誌の編集作業など、黙々と取り組む性質のものが大半であった。虚子といえども、仕事によるストレスの溜まらないはずはなく、特に彼の場合は、それが腸の不調となってよく現れたようだ。ストレスを感じたとき、現代人の我々はカラオケで好きな歌を熱唱するように、虚子は謡に励んだのではないだろうか。歌舞音曲の類は、もちろん鑑賞することも娯楽になるが、自分で演じることも大きな楽しみとなる。腹の底から声を出すことがストレス発散につながることは、虚子も同じであったに違いない。

 さて、虚子が能に特に親しむようになったきっかけとして、「虚子自伝」(『定本高浜虚子全集』第十三巻、毎日新聞社、昭和48年)には、次のようなエピソードを伝えている。虚子がそれまで熱中していた小説から、俳句に復帰しようとしていた大正2年(1913)ごろのことである。虚子は健康上の理由から次第に小説が書けなくなり、俳句に復帰していったのは、広く知られる通りだろう。特に腸を悪くしていた虚子は、医者の出す薬もよく効かないことから、思い切って静養に努めることに決めた。

静養といつたところで別に仕方もないので、子供の時分から父や兄に習つて能楽に興味を持つてをつたその能楽に遊んでみようと考へました。そこで同志十人ばかりと語らつて鎌倉能楽会といふものを作つて、能楽堂を造ることにしました。(中略)そこで十人の会員はもとよりのこと、その他の人々も加はつて、毎日のやうに囃子会を催したり、また年に二回とか三回とか衣装を着け、玄人も混へた能を催したりして遊ぶことにしました。

 最初は静養中の無聊を慰めるためであったが、やがて虚子は能と俳句を接近させていくようになる。早い時期では、大正2年の『ホトトギス』二百号記念において、記念行事として喜多舞台で能楽を催し、泉鏡花・与謝野夫妻・柳田国男・志賀直哉・森鷗外一家らを招待している。また、俳句の上では対立していた河東碧梧桐にも謡を勧め、謡は虚子と碧梧桐の友情を取り結んだ。さらに門弟にも謡を勧めるようになり、逆にプロの能楽師には俳句を勧めるようになる。

 この虚子と能との関係は、このときに始まったのではない。「虚子自伝」でも述べられているように、父の池内庄四郎政忠に手ほどきを受けたことに遡れる。次回は、虚子に能を教えた父の庄四郎について述べてみたい。

◆「虚子と能(2)」: 中本 真人(なかもと・まさと)◆


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