関西現代俳句協会

2025年10月のエッセイ

推しがいない

岡田由季

    

 もう随分長いこと俳句をしているけれど、どうも自信を持って言える「好きな俳人」というのがいない。
 もちろん好みに合う句風、そうでない句風がある。
 聞かれたならば、誰かの名前をあげることもある。
 しかしその俳人の句集ばかり繰り返し何度も何度も読んだり、深く考えたり、少しでも近づきたいと思ったりはしない。
 それなのに「好き」と言ってしまっていいのだろうか。そんな罪悪感がある。

 振り返ってみれば、俳人に限らず私には「推し」というものがいなかった。
 アイドルはもちろん興味がなく、ミュージシャンや俳優でも、ちょっと良いかな、と思うことはあるが、本当に夢中になった人はいない。
 小説なども1冊読んで面白かったら同じ作者の本を続けて読むことはあっても、ファンといいきれるほどにはならなかった。かろうじて10代の頃読んだ漫画には熱中するものもあったが、その分野においては非常な熱量を持って語る人が大勢いて、その人たちの話を聞いていると自分の情熱は全然足りないと思ってしまうのだ。

 実生活でもそうだ。今まで生きてきて、一目惚れというのを一度もしたことがない。自分のなかの恋愛感情を着火させるのはいつも大変だった。
 相手のルックスなどに対する間口は、さほど狭いわけではないが、まずは自分も相手もフリーな状態であり、周りに迷惑をかけたり障害になるような要因が無く、相手がたぶん私に好意をもってくれていて、何回も会って信頼関係を築いて、それでようやくなんとなく、ほのぼのとした感情が湧いてくる(こともある)。
 パートナーを欲しい気持ちはあったから、その「ほのぼの」が恋愛感情だと自分に思い込ませ、なんとか人生を凌いできた。
 そして残念ながら相手の気持ちが離れてしまった場合には、あまり精神的ダメージを感じずお別れできてしまうのだ。

 今はもう20年以上同じパートナーといるから、そういう面倒くさいことをせずにすみ、非常に助かっている。
 パートナーがいるのに、浮気をする人が信じられない。
 モラル云々の前に、そのエネルギーがどこから来るのか不思議で仕方がないのだ。
 たぶん私とは人間の種類が違うのだと思う。

 そういう私も情熱を注ぐものがないわけではない。
 ここ数年では野鳥の観察だ。
 そのためにカメラも自転車も買い、週末ごとにでかけ、人に鳥の話をしすぎて顰蹙を買う。
 十分に沼にはまっていると思う。
 そして、タイトルとは矛盾するようだが、私にも推しがいたことに気付く。
 それは歴代ペットだ。
 小学生の頃に飼った文鳥をはじめとし、ハムスター、兎、犬、と盲目的な愛情を注いできた。
 今も6歳になる2代目キャバリア犬に毎日愛を囁いている。
 人間に対しては、そんな気持ちを抱いたことはない。

 ここまで書いてきて心配になった。
 俳句は楽しいと思って続けてきたし、一度もやめたいと思ったことはない。
 今では生活の一部になっていて、余暇時間のうちそれなりの割合を俳句のために費やしている。
 つまり、俳句が好きなのだろうと思っていた。
 しかし本当にそうなのだろうか。
 好きな俳人の名前をあげることすら考えてしまうのに?

 皆さんにお願いしたい。
 だんだん不安な気持ちになってくるので、できることなら私に好きな俳人を尋ねないでください。

(以上)

◆「推しがいない」:岡田由季(おかだ・ゆき)◆

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