関西現代俳句協会

2024年12月のエッセイ

実家の石灯籠

田中公子

 さして広くもない実家の庭に大小2基の石灯籠があった。

 小さいほうの灯籠は手水鉢と対になっており、もみじの木の下に格好よく納まっていたが、大きい灯籠は狭い庭の真ん中に、なんとも不釣り合いに立っているように見えた。

 部屋から眺めても、大きい灯籠の回りにはさしたる木もなく、なんとなく孤高の様相だった。

 と言えば聞こえはいいが、どちらかと言えば不格好だった。

 物心がついた頃から「石が落ちてきたら危ないから、大きい灯籠には近づかないように」と言われ、私は実家の庭の灯籠でありながら、触ったこともなかった。

 両親が亡くなり住む者がいなくなった実家は、町家再生の話などいろいろあったが、結局は人手に渡り、古い家はすぐに解体された。

 2基の灯籠は、廃材と一緒に処分されるものと思っていたところ、大原に住む姉が引き取ってくれることになった。有難く、嬉しく、何かほっとした気分になったことを覚えている。

 先日「灯籠が据え付けられたので見にいらっしゃい」と連絡があり、大原の姉宅へ出かけた。山を借景に、広い庭に古い大小2基の灯籠が、何の違和感もなく立っていた。

 驚いたことに、手水鉢も、数個あった庭石の中で一番大きかった靴脱ぎ石も運ばれていて、その存在を誇示していた。

 鉄筋を入れて倒れる心配のなくなった大きい灯籠の回りでは、子供たちがにぎやかに遊んでいた。

 私は、生まれて初めて大きい灯籠に触れた。彫り物をじっくり見たのも、灯籠の裏へ回ったのも初めてだった。愛しさがこみあげてきた。幼いころの思い出と、懐かしい家族。

 この灯籠は父の生まれた時を知っているのだろうか。晩年一人暮らしだった母は、この灯籠の見える部屋で何を考えていたのだろう。

 家はなくなってしまったけれど、2基の灯籠が残ったことを両親は喜んでくれているだろうか。

 「大きい方は春日灯籠、小さい方は織部灯籠なんですって。お盆には灯りを入れるからまた来てね」という母似の姉の声に私は実家に帰って来たようで嬉しく、いつまでも大きい灯籠を撫でていた。 

(以上)

◆「実家の石灯籠」:田中公子(たなか・きみこ)◆

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