関西現代俳句協会

2024年11月のエッセイ

「雨」と「漣」

金山桜子

 夏のはじめに中之島美術館で福田平八郎展を観ました。

 その、日本画家の福田平八郎の代表作に「雨」と「漣」という二つの作品があります。「雨」は縦長の画面に屋根瓦が28枚描かれているもので、「なぜ? 瓦だけ?」と、子どものころに観たときにはツッコミを入れてしまいました。それが、最近になって、福田平八郎の絵画作品と俳句には共通点があるのではないかと考えるようになりました。

 もともと日本画の制作というのはスケッチをもとにタブローを制作するというのが一般的な方法なのですが、福田平八郎の凝視の姿勢は残されたスケッチの数からも並大抵のものではないことがうかがえます。

 話は「雨」に戻りますが、単純化された装飾的な画面には瓦の質感がリアルに描かれていて、次々と瓦を打っては消えてゆく大きな雨粒、具体的には落ちたばかりの白い雨粒と瓦に沁みて黒い痕跡をとどめている雨粒が描かれています。触れれば火傷しそうな瓦の、瞬時にして蒸発する雨粒は手品のようにも思えて、子どものころにずーっと眺めていた記憶があります。刹那にして永遠を感じさせる光景。

 また、この作品の前に佇んでいると真夏の、激しい雨が来る前のむあっとした空気や匂いがよみがえります。俳句がときに記憶の装置のように感じることがあります。福田平八郎の「雨」にも忘れていた子どものころの感覚を思い起こしました。

 「漣」という作品は、発表したときに浴衣の柄のようだという批評もあったくらいかなり省略が効いた構成になっていて、画面いっぱいに波だけが描かれています。でも、じっと眺めていると漣が打ち寄せてくるように感じられてきて、水面を渡る風が見えてきます。 調べてみますとこの作品は琵琶湖でスケッチをかさねて、それをもとに描かれたとのこと。どうりで見たことがあると感じたわけです。近江の水辺の景だったのですね。

 学生時代に石膏デッサンを学んだことがあります。ブルータスやモリエール、アリアスなどを鉛筆で木炭紙大のパネルに張った紙に描くのです。たいていは12時間ぐらいで、教室の光の方向を注視して、白い石膏像の明るい部分と影の部分、また、明暗の強さの序列を観察して量感と質感、そして像が置かれている室内の空間をも描くのです。

 この石膏像を筆と墨を使ってクロッキーで描くという課題が出されたことがありました。5分とか10分で大型の石膏像を最小限の線で描くのは神経を集中してその特徴をつかまなければならないのですが、面白かったことを記憶しています。完成したクロッキーから省略した部分が見えてくるのです。不思議でした。おそらく福田平八郎の「漣」も同じなのだと思います。

 何を描いて何を省略するか。俳句もこのあたりの表現の工夫が読み手に自由な想像を促してくれるのではないかとこのごろ考えています。

(以上)

◆「『雨』と『漣』」:金山桜子(かなやま・さくらこ)◆

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