2024年7月のエッセイ
春の到来
妹尾 健
今年の春はすっきりした区切りを持った訪れというよりも、かなり紆余を経たものであったような気がした。
順当な季節の推移が非常に乱れたものだった気がした。
初春・仲春・晩春といった順序が、時に冬が長く感じられたり、仲春の頃に真夏日があったりした。
つまり気温の差が激しいということなのである。
これは寒暖の差がひどく、身体の調整が難しいということになる。
更にこれに加えて、1日のうちに朝は寒さが厳しく昼は暑さがひどく夜になると寒さがまた厳しくなるということになると、体調がおかしくなるのは当然である。
私たちの身体は常に外界の気候気温に適応しようとする。
この適応が困難になってくるのである。
よくいわれる自律神経の失調である。
しかし、この自律神経の失調とよばれているものが、疾患であるかどうかは判断の難しいところであるらしい。
自律神経は交感神経と副交感神経からなり、これを自動的に調節するのが自律神経の働きというわけである。
つまり自分の意志で調節したりすることができないということなのだ。
なにしろ自律神経の中枢は脊髄と脳幹にあるそうだから、自分の意志判断よりも、自動的に調節する以外にないのである。
従って1日のうちで気温の寒暖差が激しくその体温調整に躍起となるということになる。
春の到来が告げられているというのに、真夏日になったり、また冬に逆戻りになるような日がつづくと、あわててしまいこんだ冬物を着てみるということになる。
長い冬が明けて春の到来を喜ぶというのが、古来からの私たちの感情であったが、いつの間にかそうした感情の自動調節は難しいということになってしまった。
最近のもう一つの特徴として五月病があげられている。
これはもともと4月に入社入学した社員や学生が襲われる神経症的な状態をいったものであるが、この頃ではむしろ一般的な成人の疾患といわれている。
語義が変換されてきたのである。
ここから俳句のことについてかたらねばならない。
こうした外界の変化に対して俳人はいかなる対応をするべきかという課題である。
これは私たちに表現のおおきな工夫を迫るものだといってよい。
これまで俳人たちが依拠してきた歳時記の検討もしなければならない。
季節に応じた季語の活用も時期にふさわしい対応が必要であろう。
それに適した例句や作品も考えてみることである―例えば金子兜太編の『現代俳句歳時記』の「雑」の部の解釈や「あとがき」の解釈など―。
あるいは俳諧の伝統の系譜をたどり、その試みの多様性を考えてもいいかもしれない。
私たちはそうした歴史をたくさんもっている。
いたずらに伝統破壊に縋るよりも、豊富な試みの多様な足跡が私たちの前に残されているのである。
これを生かさぬことは損失である。
(以上)
◆「春の到来」:妹尾 健(せのお・けん)◆