関西現代俳句協会

2022年7月のエッセイ

題詠とドリフ

木村オサム

 一昨年志村けんさんがコロナで亡くなられた後、懐かしさもあり、時折けんさんが所属していたドリフターズ(以下ドリフ)の過去のコントを観た。
 そこで思ったことがある。 俳句における題詠の創作過程と、ドリフのコントの展開はどこか似ているのではないか。

 ドリフの王道コントは、同じシチュエーションで、連続的に展開される。リーダーのいかりや長介の前で、メンバーが一人ずつ現れ、意外なことをやってのけて、いかりや長介を困惑させたり、呆れさせたりしていく。
 メンバーの現れる順番はほぼ決まっており、高木ブー→仲本工事→加藤茶→志村けんというのが基本パターンだ。

 例えば、ある家の居間に一人で座っていると、天井から頭に何かが落ちてくるというコントではこんな感じだ。

① 高木ブー…天井から蛇が落ちて来る。
② 仲本工事…天井から金盥が落ちて来る。
③ 加藤 茶…天上から花びらが落ちて来る。
④ 志村けん…天上から本物の志村けんが落ちて来る。(居間に座っていたのは実は志村けんを模した人形で、本物が天井から座った姿勢で落ちて来る)

 各パターンを少し分析すると三つの事が言える。
 まず、①→②→③→④の順で意外性が増す。
 次に、①②→③の間に外しがある(蛇、金盥と来たら、次はもっと危険なもの、怖いものが落ちて来ると思わせておいて、逆転の発想で花びらという優しいものが降って来る)。
 最後に、④はそれまでのパターンを離れ、考えもつかないような、思い切りナンセンスな展開になる。

 さて、俳句において、題詠が課された時に、我々は、題(季語でも非季語でも良い)に対して色々な展開を考えて句を作ってゆく。
 最初の内は、題から連想される一般的な連想からなかなか離れられない(高木ブー段階)。
 しばらく考え続けると、ちょっと意外性のある展開を思いつく(仲本工事段階)。
 更に考え続けると、題とは一見無関係だが、かすかにつながりが感じられるような展開を思いつく(加藤茶段階)。
 ここで、ちょっと間をおいて、肩の力を抜いて考えると、理屈を離れ、新しいつながりを感じさせる展開がふっと浮かぶことが稀にある(志村けん段階)。

 題詠というのは、俳句的思考を広げ、柔軟にしてゆくトレーニングの一つとも言える。 やはり、与えられた題に対して多くの句を作っては捨てることがトレーニングの基本となるだろう。
 加えて、自分の身の回りのことは元より、世界の森羅万象に目を向け、更には、様々な文芸、演劇、映像などからの刺激を受けることも大切だろう。
 そうして、無意識からふっと新しい表現が生まれてくるのを常に待ち続ける事が重要だ。

 私自身、題詠の際、ドリフのコントで言うなら、高木ブーから仲本工事ぐらいまでで考えるのをやめてしまうことが多い。よくがんばって加藤茶だ。
 だが、これからの現代俳句はやはり、志村けんまで登場させたいものだ。
 そして、いかりや長介に心底から「だめだこりゃ…」と言わせるような句をものにしたいものだ。

(以上)

◆「題詠とドリフ」:木村オサム(きむら・おさむ)◆

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