関西現代俳句協会

2021年8月のエッセイ

だまし絵としての「第二芸術」

鈴木ひさし

 タイトルが本の読み方を方向づけてしまうことがある。桑原武夫「第二芸術―現代俳句について」は、別のタイトルであれば、また、別の読み方がされたにちがいない。あるいは、さほど話題になることもなく、忘れ去られてしまったかもしれない。

 「第二芸術」を理解するには、まず、「第二芸術」の本文を読まなければならない。タイトルを離れ、もう一度書かれた「青空と瓦礫」の時代と場所に置き直してみると、「だまし絵」としての「第二芸術」から、別の絵が見えてくる。

 日本国憲法の公布とほぼ同時に、「第二芸術」は発表された。
 『桑原武夫と第二芸術-青空と瓦礫のころ』の「はじめに」の右ページには2枚の写真を載せている。1枚は、11月3日翌日、「新憲法公布記念祝賀都民大会」の模様である。写真の上半分は晴れわたる空、皇居前を埋め尽くす10万人の老若男女、その向こうにGHQのおかれた第一生命ビル、こちら側には数名の米兵が立っている。もう一枚は、1946年2月13日、東京・新橋駅近くのヤミ市場の写真である。焼け残ったビルと瓦礫とバラックと人々。

 1946年3月5日、アメリカ教育使節団が来日し、3月30日、報告書提出。1946年5月15日、文部省の「新教育指針」の発行が始まる。1946年8月10日「教育刷新委員会」が設置され、10月16日、六三制教育の原案を決定する。雑誌『世界』に「第二芸術」が発表されるのは1946年11月号である。占領下、時代のうねりと人いきれ、その空気の中で、「第二芸術」は書かれ、読まれた。

 桑原は、「第二芸術」までに、どのような思想、作品、人物に触れてきたのか。かつて広く読まれた、桑原武夫『文学入門』(1950年、岩波新書)の「はしがき」には「私はデューイ、リチャーズおよびアランから、多くのことを学んできた」とある。

 『桑原武夫と第二芸術-青空と瓦礫のころ』では、この3人はもちろん桑原の言及した高濱虚子、松尾芭蕉、三好達治、鶴見俊輔、父桑原隲蔵にも文脈をたどり、「第二芸術」を読み直してみた。「だまし絵」は、どこをどのように見るかで見えるものが変わる。この本では、「だまし絵」のひとつの見方を示したつもりである。

 著者としてではあるが、『桑原武夫と第二芸術-青空と瓦礫のころ』は、これまでの第二芸術」の読み方が少しだけ変わる本である、と思っている。ぜひ、ご一読を。

(以上)

◆「だまし絵としての『第二芸術』」:鈴木ひさし(すずき・ひさし)◆

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