関西現代俳句協会

2021年7月のエッセイ

僕と俳句

西田唯士

 大阪阿倍野の近鉄俳句教室にお世話になった時、僕はすでに65歳を過ぎていた。
 皆さん、言葉優しく受入れて下さったが瞳は冷たかった。若い頃、川柳やコント、短文等を書いていた僕は、それ位は覚悟してはいたがやはり「偉いとこへ来たなー」が実感であった。皆さん、俳句に必死なのだ。

 「まあ、3年やってみるか」
 師は当時を代表する俳人、鈴木六林男先生であった。
 「3年経ったら僕は一切助言しません。俳人は俳句勝負やから」
 「俳人てそんな高尚な―」

 句集2冊以上出さなければ俳人とは言えないとも云うが、俳の字の語源には、神の前で二人がブレイクダンス等をして神を癒す滑稽の意もある由、ならば「俳塵」ならずとも、「下流の俳人」位なら名乗るのも許されるか。

 あれから20数年、六林男師は後生に多くの名句を残され既に他界された。
 俳句とは不思議な文芸だ。7歳の子供にも出来る反面、1句で1冊の本を著せる位の難しさも秘めている。いわゆる疑問の詩だ。
 「兎角俳句は器が小さいから表現の無理なジャンルがある。それでも書き方によってはかなりの奥義まで追求表現出来る。」
 先生の言葉でよけい解らなくなった。

 だが、3年間必死に俳句に取り組んでみる。挫折と希望を繰り返しているうちに先生の言われた事が何となく解ってきて嵌ってしまう。多くの句友にも恵まれ、句会でも先輩や先生さえも凌駕して時に主役にもなれた。
 長い俳句人生の中では1回や2回、何かの賞を得て当然で、それ位で有頂天になるなとは厳しい先生の諭しでもあった。

 僕は、俳句界は下流のクラスが中流を支え中流が上流を支えていると思っている。我々生徒クラスは中流の上位ぐらいまでは行けても先ず上流にはなれない。上流は先生の領域で明確な一線を劃している。先生には師系の継承もあるし、安易に妥協できない先生としてのセオリーもある。僕のような狡い俳句は出来ない。僕は伝統から現代まで多様な俳句や選者の先生に迎合するよう常に一貫性のない姑息な志向で得点本意の俳句をしているが、読手の琴線を奏でるのは並大抵ではない。

 「何故か」に対しても何一つ答えを出せていない。
 それでも俳句が好きだから死ぬまで続けるしかない。
 次の兼題は既に出されている。

    屑金魚なら屑なりの集団美    唯士

(以上)

◆「僕と俳句」:西田唯士(にしだ・ただし)◆

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