関西現代俳句協会

2021年6月のエッセイ

今後

横井来季

 句集を読むという行為は、その人の作句に多かれ少なかれ影響を与える。よく言われることだが、俳句をはじめたばかりのときのことを思い出すと、その言葉の説得力を再認識する。

 私が初めて読んだ句集は高校の文学部の顧問から借りた(と言っても、主体的に借りたというよりかは、私たちに俳句の勉強をさせるために顧問が借りるように誘導したというのが正しいのだが)、『六十億本の回転する曲がつた棒』だった。

 読んだ感想としては、よくわからない、というものだった。その句集を読むまでは、俳句とは五七五の音律の季語を入れた伝統詩、という認識だった。しかし、この句集の句群は五七五でないものも、季語がないものも、伝統的でないものもある。私の中の俳句像が崩れたときである。

 当時は、意味はよくわからないものの、句群のインパクトに魅せられていた。特にカタカナと漢字だけの俳句で構成されている連作、「マクデブルクの館」に引かれていたと思う。今読み返してみると、よくも悪くもベールが剥がれたような印象で、自分の目が肥えていることに気づく。まず、カタカナと漢字だけで構成されている連作は先例があり、その形式だけでインパクトがあると評価するには弱いということ、また、全体的に遊び心やサブカルに偏っている印象もある。ただ、当時は気づかなかった秀句(<鷹は鳩我は扉となりゆくや>や<ヘルパーと風呂より祖母を引き抜くなり>など)に気づけるようになったということは喜べる。

 話は変わるが、私が受賞した俳誌協会新人賞の連作の中に、<海苔照るやブルースクリーンの点滅に>という句がある。この句について、句友のWが、「どことない終末感があり、関悦史の作風に似ている」と評価した。〇〇に似ているという評価はあまり嬉しいものではないが、確かに、言われてみれば影響を受けているように思える。と言っても、この句をつくる際に、関悦史の句を思い浮かべたわけではないため、無意識レベルで影響されているということだろう。

 さて、過程のことをつらつらと書いてきたが、要するに、今後は一俳人として他の俳人からの影響を時には受け止め、時には振り払っていきたい、ということが結論である。今後も他人の俳句は読んでいく。それは純粋に楽しみのためでもあるし、勉強のためでもあるし、インスピレーションのためでもある。その際、その俳句から自分の俳句に何らかの影響があっても、元来人間は他者と影響しあうものだから、それ自体は仕方のないことである。音楽や美術から影響を受けて作句することと大差はない。ただ、その影響を自分でコントロールする能力が、今後の俳句生活に絶対に必要になってくると思うのだ。

(以上)

◆「今後」:横井来季(よこい・らいき)◆

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