関西現代俳句協会

2021年4月のエッセイ

屋根と花

小西雅子

 『屋根にのぼる』は私の俳句とエッセー集である。のっけから宣伝かい、とげんなりしないでほしい。この本を出版して数か月後、奇妙なことを耳にした。『屋根にのぼる』がもうひとつあったのだ。短歌集『屋根にのぼる』だ。出版は2冊とも2017年3月1日の日付。奇妙であり、どこにでもあることではない。

 こんなことを知ったらおそらくどちらかが相手に連絡するはずだ。なのに私はしなかった。本も買っていない。相手からも何もない。そろそろ連絡しようかなと思いながら4年が経った。俳句と短歌の違いはあれ、同じ日に同じタイトルを選び出版した。のぼるは「上る」でも「昇る」でも「登る」でもなく「のぼる」。どんな人だろう。

 さて、こんなことがあったからかどうかはわからないが、私は以前にも増して屋根が好きになり、あちこちの屋根を見る。今、瓦の屋根が少ない。最近の新築の家は、耐震を考慮してかデザイン性を重視してか、スッとしている家が多い。北国では雪卸しの負担が減るようにストンとした造りだ。スッとかストンとか、ではでは瓦屋根の形容はと考えるとスットントンか。

 そもそもどうして屋根は「根」なのだろう。地面から遠いのに。インターネットで調べると何でもわかるものだ。屋根は縄文時代の竪穴住居からあるらしい。地面を掘ってその上に屋根をかけた。つまり屋根全体が家。地面の下の穴とつながっていてそれは立派な「根」の家屋だった。

 子どものころ、7、8メートルもある大屋根にのぼるのは年に一度、大文字の送り火を見るためだけだったが、ことあるごとに梯子にのぼった。屋根でなくても、梯子でなくても、カシの木でもモチの木でもよかった。高いところを求めていた。高さ1メートル直径15センチメートル、枝も何もない杭のような切り株の上に立っていつも遠くを見ていた。何を見ていたのか、何を見たくなかったのかわからない。

 65歳の今、もう大屋根にはのぼれないが、梯子や脚立を見たらついつい足をかける。植木の剪定はまだ大丈夫。高枝切り鋏があるのにどうして両手鋏を持って脚立に乗るのかと高所恐怖症の連合いは言う。父は94歳で亡くなる寸前まで脚立に乗り、柿の木の剪定をしていた。近所の人は危ないからやめさせなさいと言う。でも私は何も言わなかった。父はついに落ちることはなかった。

 下から見上げるだけではつまらないとつくづく思う時がある。高層ビルの硝子窓を外側からみがく職業にあこがれる。灼熱の太陽も晩秋の夕焼けも初雪のひと粒も磨ける。桜のころ私の心は屋根にある。江戸時代の盗賊のように、屋根という屋根を黒装束でぴょんぴょん跳んで、京都の市中の花の景色をながめたい。

(以上)

◆「屋根と花」:小西雅子(こにし・まさこ)◆

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