関西現代俳句協会

2020年12月のエッセイ

見るということ

石井 冴

   

 住んでいるマンションの人工の水辺にちょくちょく青鷺がやって来る。人の気配の少ない休日の早朝のことが多い。池には黒い鯉に混ざりきれいな色鯉も走るように泳いでいる。餌付けされていないので寄って来ないが、毎年稚魚が孵化するのがうれしい。たまにパンくずをやるお年寄りもいるが、自然の状態でたくましく増えもせず、減りもしない。鯉は意外なことに成長が早くて20センチぐらいになるのはあっという間で、この池の主のまだらの色鯉の丈は80センチはあるだろう。

 青鷺は浅瀬の流れで嘴に合う手ごろな大きさの獲物を動かずにじっと待つ。自分の姿を消しているかのようで、人が近付いても、恐れぬ顔をしている。しかし、そこは野生の本能で灰色の目でしっかりと人間の動きを追っている。あの哲学者のような灰色の目に私はどのように映っているのか、どのように感じているのだろうか。私はそっと10メートルの間隔を保ちながら、鷺と目を合わせ、ゆっくりと通り過ぎることにしている。

    青鷺の不動の時間生きており   悟朗

 奈良の入江泰吉旧居に吟行に行った時のこと。あいにく休館だった。近くを散策していると、まるで「私を見つけて」と言っているように、不思議な頭でっかちの枯れた草木が立っていた。てっぺんにぎっしり赤い実を付けた握りこぶし大のたった一本である。

 同行の植物に詳しい句友が即座に「ムサシアブミの実やわ」と教えてくれた。その昔、武蔵の国で栽培されて、花の形が馬具の鐙に似ていることから名付けられたそうだ。一緒にいた私たち6人はなんやかや騒ぎながら、俳句をものにしようと取り囲んで、目を凝らしてじっと見つめた。

    饒舌でむさしあぶみの実が怖い
    よろこびの声をむさしあぶみの実
    武蔵鐙の実足の力の不足せり
    赤い実は赤く鴉の飛び立てり

 一つの同じものを同じ時に見た吟行句だが、みんな違う。見るという客観の中にそれぞれの感情や経験などの主観が入り交ざり個性的である。吟行の醍醐味だろう。見るという感覚の複雑な脳の働きを思う。

    万物は水か流るる十二月     悟朗

 今年の春からのコロナ禍で吟行はあれから行けていない。11階のベランダから家々の屋根や山や空を眺める時間が多くなった。稲光や雲や雨が生きもののように生きているのを楽しむ。ビルの間を抜けながら東から西へ玩具のように、蛇のように電車がゆっくりと動いていく。

 南東の方角には生駒山がそびえている。生駒の向うは和田悟朗先生が住んでおられた奈良である。目には見えないが、和田先生は今もあの朗らかな表情で思考を巡らせておられるに違いない。

(以上)

◆「見るということ」:石井 冴(いしい・さえ)◆

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