2020年1月のエッセイ
ひととせの蝶
鈴鹿呂仁
「早く眼を覚ましなさい」
と春のそよ風が私を起している。この世に生まれた私は、その声は母の声に違いないとそう思うことにした。父も母も私の近くにはいないが、私にはテレパシーで話しかけてくれている。生まれたこの場所は何処なのかを教えてくれたのも母である。九州鹿児島の南端・都井岬という処らしい。お花畑の花の香りが鼻孔を擽ってきた。
蝶生るる一乃の雲を友として 呂仁
「少し跳んでごらん」
と母の声が聞こえてくる。母の優しい声に何の躊躇もなく翅を広げてみるとそよ風が私を包んでくれているのを感じた。ほんの一メートルの高さも私にとっては見知らぬ世界だが
、何故か初めてではないような不思議な感覚である
「それは、持って生まれたものですよ」
と母が言っている。母に背中を押された私は
、勇気を出して高く舞い上がった。眼前の海の景色は目を見張るものがある。
「まだまだ遠くは無理ですよ」
母に叱られてしまったが、何故かこれからの事が楽しく思われてならなかった。それから暫くはこのお花畑で過ごすことになった私は、お花畑の隅々まで知ることが出来た。
その間母は、様々なことを教えてくれて十分な知識を身に付けた私には沸々と冒険心が芽生えてくるのを感じていた。しかし、この岬にも梅雨がやってきて私の昂る気持ちを萎えさせている。
遥かなる星のざわめき梅雨の蝶 呂仁
梅雨晴れの日に私は少し遠出をすることにした。勿論、母も一緒について来てくれている、と信じてのことである。ここは、海辺の近くの森で突然の雨を凌ぐにはもってこいの場所である。夜には、星を眺めながら葉裏に身を潜めて母とこれからの生き方について語り合ったが、何時の間にか眠りについていた。爽やかな風に目覚めた私に母の声がする。
「梅雨明けの風と言ってね、この風を白南風と言うのですよ」
これから本格的な夏が始まるらしい。私の胸は高鳴り、妙な興奮が身体中に深まってくる。
夏蝶の影海の蒼さに溶けず 呂仁
「そうだ、あの海の上を跳んでいってみようか」
「そうだね。行くが良いよ。大丈夫だから安心しなさい」
母の声に意を決して跳んでいった。空から見下ろす海は、母の胸に包まれるような偉大さがあり色の蒼さは深くて吸い込まれていくようである。
夏蝶の追ふ航跡の白さかな 呂仁
私は、急降下して海すれすれに飛んでみることにした。海の匂いを一杯吸い込んで束の間のスリルを味わいながら満足な一日を終えた。波乱万丈の楽しかった夏は、終わりに近づくと海の上の空も変わってくる。
「行き合いの空と言ってこの時期は、夏の雲と秋の雲が同時に見られるんだよ」
「これからは夏の暑さと違ってだんだん涼しくなってくるよ」
母の声を聞いていると別の耳には秋の声として何か寂しげに聞こえてくるから不思議な感覚だ。私はもう一度森に戻ってみることにした。やはり、森全体も雰囲気が変わっている気がするが梢の葉音と虫の声が切なく胸を打つ。
秋蝶の葉裏に残す夢ひとつ 呂仁
夏の日の冒険の興奮が日毎に薄れてゆく中、私の胸に迫ってくる寂しげな一抹の不安を隠し切れない。心の中の私の声を母が拾ってくれる。
「私たちには、自分ではどうすることも出来ない定めがあるんだよ」
「定めに従って生きてゆきなさい」
母の声は重たく冷たい翳を落していく。
秋も深まってくると森の木々は木の葉を落とし虫の声も聞かれなくなった。
「私たちもそろそろあなたから去る日が来たみたいね。もう、面倒を見てやれないが精一杯悔いの無いように生きなさい」
冬蝶の日の零したる別れ際 呂仁
突然の母の声に戸惑いを感じながらも母へ感謝の気持ちを伝えた。
「お母さん、今までありがとう」
母の声が聞こえなくなって私は、思い出の海へと向かう翅を広げることにした。今は、あの夏の海は消えて冬の荒ぶる海へと姿を変えてしまっている。
「どこまでも夢を追いかけよう」
この海の遥かな先は、どこなのだろうか?きっとそこには永遠のお花畑があることを信じよう。
日を返す海峡は見ず冬の蝶 呂仁
(以上)
◆「ひととせの蝶」:鈴鹿呂仁(すずか・ろじん)◆