関西現代俳句協会

2019年12月のエッセイ

言葉に出会う

榎本祐子

 神戸に住んで二十六年になる。九州生まれの九州育ちだが今ではすっかり関西になじんだ

 神戸は海と山が身近で、方向を示すにも海側、山側との言い方が定着している。古くからの港町らしくフレンドリーで親切な人が多く、程よく落ち着いている。

 平清盛の夢のあとの福原、神戸港。六甲山系西の端には、義経の一ノ谷の逆落しで有名な鉄拐山があり、眼下には、平家の若武者敦盛と熊谷次郎直実との切ない戦いの場、須磨の海が光っている。風光明媚を愛でるのみではなく歴史や地霊を感じることで時空の厚みが増す。時間の経過の中で言葉に置き換えられ、認識された世界からは良くも悪しくも逃れようがなく、言語化された時空の中にいると感じる。

 最近、「六甲山自然案内人の会」の定例観察会に時折出掛けている。六甲山周辺の植物の観察、調査が主な目的だ。足元の草や花、木やその花を、案内の方々の驚くほどの詳しい知識で説明を受け、毎回ワクワクしながら歩き廻る。俳句の中でしか知らなかった植物と実体がひとつになる時は、これがそうか!と嬉しくなり次々と名前を書き留めてゆく。チゴユリ、アリマスズクサ、キランソウ、ジャケツイバラ、ムラサキケマン、ヒナギキョウ、ヌスビトハギ等々。季語を収集するように。

 自然の光の中、白くあった物がチゴユリと言う名前を得たときからそれはチゴユリになる。その物を他と区別するための名前、言葉は物を固定する。それは便利で、共同体の中で認識される道具としてなくてはならないが、反面、自由を奪ってしまう。

  歳時記の中の言葉や物事も長い間の人々の想いを背負い込み、美意識を凝縮させ、固定化されたコードとなっている。それは強固なもので、ひとつの単語で瞬時に世界を伝達する。言葉数の少ない俳句にとっては、ああだ、こうだと言わずに済む便利なツールだ。そんな言葉で俳句を書くことは出来合いの惣菜で食事を済ますようなもので、季語をメインに付け合わせのサラダを添えれば手っ取り早く一品が出来上がる。又は、メインの料理に季語を付け合わせにと、忙しい時にはとても重宝する

 しかし、個の表白である俳句をそのような借り物の言葉で済まして良いはずはない。固定化されたものたちを一旦自然の中に戻し、名付けられる前の何の計らいもない初な状態に解放し、そこで出会い、その交歓のなかで表現したい。だか、言葉で表現する限り純粋な交歓は、言語化した途端、一瞬にして固定化されてしまう。そんな矛盾をはらんだ中で只、書くという行為だけが真実なのかもしれないと思える。

 太古、人間が何かに触れたときに示したであろう感情の表現。体の痙攣、打ち付けた音、叫び、やがて個の衝動は伝達の欲求となり、洗練された踊り、音楽や歌などとなるのは社会的な存在である人間には当然こと。しかし、原初の衝動だけは身の内に持ち続けたいと願う。

(以上)

◆「言葉に出会う」:榎本祐子(えのもと・ゆうこ)◆

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