関西現代俳句協会

2019年9月のエッセイ

「変容」について

金山桜子

 月刊誌のアンケートで座右の書を問われ、リビングの本棚を眺めた。

 この部屋には、句集や俳誌のほかに、とくにお気に入りの本を置いて、背筋を伸ばしたいときや異世界へ飛びたいときにそれらのページを開いているので。

 『舟越保武全随筆集/巨岩と花びらほか』(求龍堂)もそのうちの1冊で、「変容」(『石の音、石の影』)という随筆が、どこか俳句と向き合う時の様子に似ている気がして惹かれた。少し長くなるけれど、引用したい。

 学生たちが作っている塑像を見ていて、不思議なことに気がついた。
 数人の学生が、モデルを囲んで制作していた。木の芯棒に、粘土をゴテゴテくっつけたり削りとったりで、仕事の途中は、ほとんどサマにならない。ただ粘土の荒っぽいデコボコがあるだけで、それがなかなか「カタチ」にならない。粘土が見えるだけだった。
 その制作過程で、一人の塑像が、ある日突然に変わっているのに気がついた。急に「カタチ」になっていたのだ。昨日からそんなに作業が進んだのでもないのに、昨日とは、別のもの、になっていた。仕上がっているという意味ではないが、もう昨日のような粘土は感じられなくて、彫刻の「カタチ」が見えて来ていた。この学生の顔に熱気があった。(中略)
 粘土が見えなくなって形が現れる。
 絵具が見えなくなって色そのものになる。

 俳句も一心にたくさん作って、たくさん捨てることを繰り返していたら「神の分けまえ」というものが降りて来るのかもしれない。

 ただ、経験から言って、絵画も、書道も、およそ芸事といわれる領域のものは、修練を怠ると見る間にダメになるように感じる。たぶん、俳句も。それは、テクニックを失うということとは別に、「もの」が視えなくなるのではないかと思う。

 新鮮な気持で繰り返し句作を続けることが出来たら、いつか文字が消えて「心」だけが見える俳句が生まれるかも知れない。

 舟越保武は次のようにも語っている。

 「文章では、一行目から始まって順々に出来て行くので、ある日突然に変容が、というわけには行かないものだろう。ひと目で全体を見ることのできる、彫刻や絵と、順を追って読む文章とでは、『時間』との関わりあいの点でも、まったく別のものだ。」と。

 俳句も文章と違って、ひと目で全体を見ることが出来るものだから突然の変容を期待できるかもしれない。

(以上)

◆「『変容』について」:金山桜子(かなやま・さくらこ)◆

▲今月のエッセイ・バックナンバーへ