関西現代俳句協会

2019年7月のエッセイ

レオン

横田明美

 去年愛猫レオンが死んだ。暑さが遠ざかり始めた秋雨の降る朝、魂が体から抜け出していくような小さな息を「くぅぉー」と吐いて16才の命を閉じた。瘠せて尖った骨が憐れであったが最期は安らかだった。覚悟はしていたのでペット葬に伴う準備もすぐに出来た。保冷箱に眠るレオンの体を撫でながら夫と二人涙に暮れた。娘や親戚が生駒の地に駆け付け、関東住まいの息子たちは其々の地で悼み悲しんだ。「たかが猫一匹、されど」である。

 レオンはアメショの牡で「義母を亡くしたばかりの義父を慰めるため」と言う娘の提案で飼い始めた。優しかった義父が100才で亡くなるまでの4年間、一番の仲良しとして役目を果たし、「猫と爺さん」のほのぼのした姿を見るにつけ、私たちも心を和ませた。私は句材に困った時、レオンを観察して俳句を作った。人間の都合で去勢され、室内で生涯を過ごしたレオンは幸せだったのかな、とふと思う。今レオンはピアノの上の写真立てに納まり、夫と私の暮しを見詰めている。遺骨は、座敷の義父母の仏壇の真向かいの南庭に深く埋められ、花に囲まれ、時折線香の煙が辺りに漂っている。

 レオンを飼い始めた頃、内田百閒の「ノラや」を読んだ。失踪した猫「ノラ」を探し続ける話が最初から最後まで延々と続く。知人友人はもとよりあらゆる情報網を使い、泣きながら奔走、似た猫が埋葬されたと聞くと墓まで掘り返す。その狂気の膨張に唖然とした。その後「クルやお前か」では「ノラ」の後釜の猫「クルツ」の最期の様子を延々と書いている。我が家のレオンの最期の光景にそっくりだが、百閒先生よりは私の方が理性的だと思う。

 佐藤春夫も「愛猫知美(ちび)の死」という短編で「親、兄弟、師匠、友人らの死を悲しみはしたが涙は流さなかった。それが猫の死に対してだけがこんなに多くの涙が流れるのが自分でもどうしてもわからない」と、我が涙に戸惑っている。大文豪でさえそうなのだから、私たちも理性云々と言わず、涙枯れるまで泣いていいのだ。

 平安時代の貴族の間では猫は大切にされていたようである。「枕草子」には「うへにさぶらふ御猫は、かうぶりにて命婦のおとどとて、いみじうをかしければかしづかせ給ふが」とある。「かうぶり」とは叙爵で、この「命婦のおとど」なる猫は従五位に叙せられている。それに比べ、この猫を怯えさせた犬の翁丸への仕打ちはひどいものである。

 「源氏物語」では、柏木と女三の宮との不倫、不幸のきっかけとなる重要な役を女三の宮の愛猫「唐猫」が演じる。この猫も繋がれ大切に飼われている。

 猫を詠んだ俳句は山ほどあり、犬より多そうである。人に媚びず気儘に誇り高く生きているように見える猫の生態が俳人の心を掴むのだろう。人は猫の心を勝手に解釈し、哲学者めいたものを感じたりもする。

    何もかも知つてをるなり竈猫       富安風生

    薄目あけ人嫌ひなり炬燵猫        松本たかし

 先日、図書館の「古本まつり」に不要になった「猫」関連の本を沢山持ち込んだ。欲しい人が自由に持ち帰るのだ。翌日行くと全部無くなっていた。どこかで役立っている事が嬉しく、また猫のいる家庭が羨ましくもあった。

 義父亡き後、子どもたちが巣立ち二人きりになった夫婦の心をレオンは慰め、離れて暮らす家族の絆をも深めてくれた。今もその思い出は私たちを癒し、心を優しく穏やかにさせてくれている。

    春眠や猫やはらかく抱き直す         明美

(以上)

◆「レオン」:横田明美(よこた・あけみ)◆

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