関西現代俳句協会

2019年6月のエッセイ

茨木市、一つの俳句史

藤井なお子

 20年程前、初めて句会というもの参加した。茨木市中央公民館で行われている小さな句会に、当時まだ哺乳瓶を持っていた次男を連れて出席した。そのころ母からの勧めで俳句を始めようと思い立った私は、ふと手近にあった茨木市広報を見て、たまたま広げた紙面の片隅に「風雪句会へどうぞ」という案内が掲載されていたのを見たことからである。その一時期お邪魔した風雪句会であるが、茨木市の一本の俳句の歴史の流れの一つであったことを近頃知った。少し紹介したいと思う。

 今になって知る「風雪」は、現在茨木市に存在する俳誌「山びこ」の前身であり、さらにその先に「大歩危」という俳誌があった。冒頭の句会に居たベレー帽を被った小さいおじいちゃんが、最晩年97歳ころの茨木市の俳誌「風雪」元主宰、大槻方中である。

 始まりは、茨木市北部に安威(あい)という地区からである。このあたりは、古代から文明の進んだ地であったようだ。弥生時代に栄えた安威遺跡があり、二十六代継体天皇ゆかりの地であり、藤原鎌足の墓とされる「将軍塚」もある。古代から日本の文明の中心地の一つであった。また、近接する宿久庄は、川端康成が旧制中学(現在の県立茨木高校)を卒業するまでを過ごしていた。

 さて、約60年前、安威地区に住む一人の人物によって、まず「大歩危(おおぼけ)」が創刊した。その人物は富士憲郎といい、茨木市立中央図書館に併設されている富士正晴記念館の主人公富士正晴の父である。地区の赤十字病院の事務局長である憲郎が、患者の為に句会を起こし「大歩危」を創刊したのだ。そこに、安威婦人俳句会を起こした髙井文子が参加する。

 12年続いた「大歩危」であったが、富士憲郎の死により廃刊となった。その後しばらくして、前茨木市長だった大槻方中により「風雪」が創刊され歴史が引き継がれる。「風雪」誌は約20年間、主宰が全て手書きし、毎月の発刊をひと月の遅れも休みも無く続けられたという。その大槻方中も高齢となり廃刊、髙井文子による「山びこ」に引き継がれていった。 (文頭私が出席した公民館での風雪句会は、廃刊後に同志で行われていた会であったようだ。)

 「山びこ」は、安威地区の人々を中心に広がり、会員は100名を超えてゆく。そして一昨年、髙井文子は104歳の天寿を全うし、主宰は娘婿の髙井仁男氏に引き継がれた。 振り返ってみると、一つの地域で三誌に引き継がれ、60年もの間人々の俳句への熱い想いが培われていたとも言える 今後私は、髙井文子を中心に調査を深めて行き、本年10月26日、柿衛文庫で行われる「大阪俳句史研究会」にて成果を発表させて頂く。

 最後に、今回知るうち好きになった俳人として、木下十三に触れたい。「大歩危」発刊から終刊までを編集長として支えた木下十三は、「旗艦」「青玄」にも所属していた。

    松蝉や病者の干せしもの光る        十三

    地虫きく幾多の療友逝きし屋に

 木下十三は、赤十字病院の結核病棟の患者であった。『大歩危』廃刊後、病状が悪化し遠方へ転居を余儀なくされたようだ。もし、木下十三についてご存知の方がおられたらお知らせ頂き、どんな小さなことでもいいから伺いたく思う。

(以上)

◆「茨木市、一つの俳句史」:藤井なお子(ふじい・なおこ)◆

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