関西現代俳句協会

2018年10月のエッセイ

「卒業」の話

野住朋可

 私は破れたりヨレヨレになったりするまで洋服を着るタイプの人間なので、18歳で関西に引っ越した直後に買ったブラウスを、25歳になった今でも大事に着ている。袖や襟の形も普通で、薄い黄色の布地に細かい花がたくさん描かれている。よくある服だがその平凡さが気に入ったのだ。

 ところが、この頃それを着て街に出ると、なんとなく恥ずかしい。似合っていないような気がする。デザインが気に入らないわけでも、どこかに穴が開いたわけでもない。体形や顔の作りが大幅に変わってしまったわけでもない。いろいろ考えて、たぶんこれが大人になるということなんだなと思った。良いとか悪いとか、そういう次元の話ではない。ただ時間が経ってしまったのだ。

 あらゆる場面でこういうことは起こる。「卒業」と言いかえてもいいかもしれない。嫌いになったわけではないけれど、なんとなく離れていくこと。お気に入りのぬいぐるみ、ファンタジー小説、邦楽バンド、少女漫画、派手なスニーカー。気が付けば、好きだったはずのものからどんどん「卒業」して今に至る。私だけでなく大抵の人には覚えがあるはずで、どうしようもないことなのだ。

 俳句だって例外ではない。高校生の時に俳句を始めて、ブランクも含めるとそろそろ10年経つ。自分の過去の俳句を見返すのはつらい。句作から一年もたつと、自分がベストと思っていたはずの句材や文体に青臭さがにじみ出ていて、ああ私はこういう俳句は「卒業」したんだな、と実感する。(そのせいで句の貯蓄がまったくできないのには困っている。)読む方も同じで、学生の頃は確かに好きだったはずの句が、驚くほど色あせて見えることがある。以前と同じ気持ちで読む/詠むことができなくなったことに気づくと、愕然としてしまう。俳句に対する自分の感覚なんて、その時々で簡単に変わってしまうのだ。なんて頼りない。そして一度「卒業」してしまうと、もう二度と以前のようには俳句に取り組めないような気もする。時間を巻き戻すことはできないのである。

 救いなのは、俳句そのものを「卒業」するのはまだまだ先のことになりそうということだ。時間はたっぷりあって、さまざまな俳句を「卒業」していく一方で、日々新たな俳句の魅力に触れることができている。今はまだ知らないものや良さがわからないものも、これからじっくり味わいたい。それに、もっともっと時間が経てば「卒業」したものも一周回って、また輝き始めるしれない。俳句と私の間に、時間が何をもたらしてくれるのか楽しみにしながら、細く長く俳句を続けていこうと思っている。……それはそうとして、あのブラウス、どうしようかなあ。

(以上)

◆「『卒業』の話」:野住朋可(のずみ・ともか)◆

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