関西現代俳句協会

2018年8月のエッセイ

朱夏のネアンデルタール人

柳川 晋

 十数年前、中沢新一氏の『カイエ・ソバージュ《野生の散歩》』5部作を読んでいた。今から8千~1万年ほど前、地球上のいくつかの地点で新石器の革命が起こった。現生人類(ホモ・サピエンス)のライバル、ネアンデルタール人は現生人類よりも巨大な大脳を有していたにもかかわらず、現生人類が得意とする象徴的な思考を自在に働かせるためのニューロン組織が未発達であったので、例えば親族関係のことを扱う大脳の部分は、見たものが食べられる植物か毒のある植物かを区別して認識して記憶する大脳の部分との間に繋がりを持つことが出来なかったという。

 ところが現生人類の脳内には革命的な変化が起きていたので、それまで別個の(大脳の中の)小部屋におさまっていたニューロンが、その小部屋の隔壁を越えて外の領域とのつながりをつくりだし、そこを通って異なる領域を横断していく流動的な知性が動き始めることが出来るようになったのだという。

 つまり、しとやかな女性に会った時に「あなたはシクラメンのような方ですね。」ということのできる表現が生まれた(「月並み表現!」と言う勿れ)。人間が知っているあらゆる言語は、隠喩の軸(パラディグマ《代置・選択←筆者注》軸)と換喩の軸(シンタグマ《陳述・統合←筆者注》軸)の組み合わせとしてできあがっており、それ以外の言語はないのだそうだ。言語は人間の象(しるし)と言われるが、もっと正確に言えば、言語を可能にしている「比喩」の能力こそが人間の徴(しるし)であり、それを可能にした流動的な知性の働きこそ、もっとも根源的な人間的の徴(しるし)である、と氏は述べている。正に「ハイブリッド」な能力、そして隠喩と換喩の働きだけで、まとまりのある意味を生み出す言語活動、それが「詩」。

 このあたりまで読んで、日本人には俳句があるじゃないか!と気がついた。これが筆者の俳句(再)入門のきっかけだった。その時、偶々門を叩いた俳句結社「槐」の標榜するテーマ、「俳句は精神の風景」。ストンと胸に落ちた。

   酔うてゐてすとんと酔うや鳰のこゑ  岡井省二 句集『明野』

   客観に主観をかけるかき氷      高橋将夫 句集『真髄』

 人類が最初に言語を持った地点に降り立って言葉を編んでみたい、或いは初めて浅瀬から陸地に上がった水棲動物の目で世界を見てみたい、これが筆者が今でも俳句を続けている根源的な欲求だと思う。

 ところが最近放映されたNHKスペシャル『人類誕生』第2集「最強ライバルとの出会い そして別れ」で不思議な事実を知った。現生人類(ホモ・サピエンス)の最強のライバルとはネアンデルタール人。十数名の血縁集団で生活したネアンデルタール人に対して数百名の「社会」を作ることができたホモ・サピエンス、その集団の規模が生き残りを決めたというが、それは両者の言語能力の差に他なるまい。

 不思議な事実とは、現代人の中にそのネアンデルタール人の遺伝子が見つかったというのだ。ナビゲーターの高橋一生、彼の遺伝子のネアンデルタール人比率は2.3%~2.4%。胴長短足の筆者の比率はもう少しだけ高いかも知れない。

 ここからは筆者の想像。数万年前に小集団でアフリカを出たホモ・サピエンスがネアンデルタール人と交配し、その後も旅を続けて世界に拡散したのは、その遺伝子に導かれたためではなかったか?新しい土地を見てみたい、新しい出会いを求めたい、そして新しい詩を作りたい。時に心を鷲掴みにされる意味不明の衝動はこの遺伝子に由来するものではないだろうか? 俳句を作りたい!と思うこともまた。

    血が(たぎ)る朱夏のネアンデルタール人    柳川  晋

(以上)

◆「朱夏のネアンデルタール人」:柳川晋(やながわ・しん)◆

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