関西現代俳句協会

2017年12月のエッセイ

私が『鳥取の俳人 尾﨑坡酔』を出したわけ

小山貴子

 

 私は若い頃より尾崎放哉に魅かれ、彼の晩年の生活圏が京都や須磨、小豆島といった近畿地方だったのを幸いにその跡を追いかけることばかりしていた。
 仕事が忙しかったせいもあるがわからないことだらけで、それが精一杯だったと思う。
 『雲の峰』主宰の朝妻力氏に、「小山さんは放哉に惚れ込んだんやな。」と言われるけれど、私だって現世に素敵な人が現れたら放哉も自由律もほっぽり出すかもしれない(もうないか・・・)。

 いや、確かに放哉一筋で来たわけで、幾つかの謎を解きたいけれど資料がないというジレンマや私の能力では放哉を理解できないという大きな壁を少しでも崩してみたいともがいて来たような気がする。
 そのうち、放哉を知る為には彼の若い頃を知る必要があると思うようになった。
 若い頃、心に受けた何かがなければ、あのように酒に呑まれたり、小豆島の質素な庵で孤独死することにはならなかったのではないか、と考えるようになって出掛けたのが鳥取であった。

 2015年に、放哉生誕130周年記念フォーラムが催された時には、会場となったとりぎん文化会館に入りきれないほどの入場者だったが、20年以上も前は放哉は余り知られていなかったし、そもそも彼が俳句を作る基となった、鳥取にもたらされた最初の近代文芸と言われる、「卯の花会」というホトトギスの支部についても詳しいことはわからなかったのである。
 放哉を知りたい一心で、それでは自分でやるしかないと「卯の花会」の調査から始めたのだった。

 調べていくと、意外にも放哉の存在が薄いことに気づかされた。
 俳句はほどほどに嗜み、成績も抜群、運動会でも活躍、修学旅行ではリーダーに推される、温厚で優秀な少年尾崎秀雄像が浮かび上がってくるばかり。
 それに比して会の設立当初からとても熱心であったのが尾﨑坡酔であった。
 坡酔は放哉より1級上の学生で、尾﨑の「﨑」が示すように放哉とは親戚関係ではない。
 こうした調査が御縁となって、この度坡酔の遺族より1冊の本にしてほしいと依頼されたのだが、何といっても坡酔のすごいところは、中学卒業後も変わらず俳句を続け、大正末年まで地元紙『因伯時報』の俳句欄の選者を務めたことである。

 放哉や坡酔が俳句を始めた明治30年代前半から大正末頃にかけての二十数年間は、俳人にとってとても特殊で困難な時代であったと思う。
 子規没後、新傾向俳句運動から自由律へと発展してゆく流れがあり、一方で虚子の俳壇復帰によって「ホトトギス」が隆盛を取り戻してゆく流れがあった。
 この大きなうねりの中で信念を持って俳句に向き合っていった俳人の生き方は魅力的である。しかも、彼は超多忙な事業家でありながら、長きにわたって郷土における文芸の波及に力を尽くした人物とも言える。そんな坡酔という俳人の軌跡を是非記録しておきたいと思ったのである。

 尾﨑家には碧梧桐の短冊、広江八重桜や荻原井泉水等の書簡など貴重な資料が保管されていた。
 また、放哉との交流の様子等この仕事で得られたことは沢山あってここでは書ききれない。最後に『日本俳句鈔』より1句坡酔の作品を添えておきたいと思う。

    瀧の神蹴落す水や山桜

(以上)

◆「私が『鳥取の俳人 尾﨑坡酔』を出したわけ」
:小山貴子(こやま・たかこ)◆

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