2016年8月のエッセイ野風呂岬を訪ねて鈴鹿呂仁予てより訪れてみたいと願っていた野風呂岬。この野風呂岬は、瀬戸内海の小島・岡村島(愛媛県今治市)の最南端にあり名称は、観音崎という。この岬に祖父・野風呂が次の句碑(S29.11建立)を残している。 瀬戸海の五月の凪を見て憩ふ 野風呂 京鹿子福山支部の和田照海氏より熱心に来島を勧められ、今回支部の皆さんと日帰りの野風呂岬吟行が実現した。 当日は、5月末の梅雨を迎える前ではあるが、予報の傘マークを確認して京都を出る。新幹線の車窓に貼りつく雨雲を見ながら福山に到着すると、支部の皆さんの熱烈な歓迎を受けるやいなやバスは動き出した。 本土を離れると瀬戸の小島は、下蒲刈島・上蒲刈島・豊島・大崎下島・岡村島と渡り継ぐ。 とびしまの海霧を走らす安芸の風 呂仁 先ずは、岡村島に着くとそこからは徒歩となる。潮騒を耳朶に置きながら坂道を登ると小高い丘にたどりつく。雑木の成長が早いのか木々が鬱蒼としている感があるものの、支部の皆さんの代表として早出をし、この日のために辺りの清掃に取り組んでおられる姿を拝見し、有難いことと感謝の思いが湧く。 観音崎を野風呂岬と命名したのは、支部長の和田照海氏である。それだけ、この地への思い入れが強い。早く一般的な固有名詞として広まればと望みが大きくなる。 遥に伊予を眺めながら昼食を摂りそれぞれに想いを馳せるひと時を持つ。そして句碑を囲んで記念の写真を撮っていると野風呂の息遣いを感じる。 伊予はるか野風呂岬の風五月 呂仁 句碑に別れを告げて大崎下島の 最初に伊予俳壇の中心人物・小林一茶とも親交の厚かった栗田樗堂の墓がある満舟寺へと向かう。樗堂は江戸時代七俳人の一人と言われている。 海くれて鴨の声ほのかに白し 樗堂 さらに奥へと進むと天満宮へと行きつく。その境内には京鹿子同人であり野風呂の高弟・飛騨桃十(S41.9建立)の句碑がある。 花蜜柑香の高まりに夜潮満つ 桃十 御手洗には、潮待ち港として江戸時代は大層な賑わいを見せていて遊郭があった。その中のひとつ若胡子屋跡があり、遊女の悲しい悲話を聞くこととなった。遊女の魂を鎮めているお墓は小高い丘にありそこに眠っているらしい。 梅雨月を抱いてくぐもる遊女墓 呂仁 最後に、伊能忠敬が大崎島の測量をした時に寄宿したと言われる「旧柴屋」に立ち寄ると思いがけないものを発見する。何と野風呂の七句が扁額として飾られていたのだ。 来向へる五月の潮の明るさに 野風呂 御手洗の最後に野風呂の足跡を掴んだのは大きな収穫であった。御手洗吟行の特選5句を紹介する。 花みかん海へ真向きて遊女墓 照海 この吟行を終え祖父・野風呂との距離が一段と近付いた気がする。福山支部の皆さんに御礼を申し上げたいと思うと同時に再び訪れる時が来ることを念じてやまない。 (以上) ◆「野風呂岬を訪ねて」:鈴鹿呂仁(すずか・ろじん)◆ |
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