関西現代俳句協会

2016年5月のエッセイ

芭蕉終焉の地

森 一心

 芥川龍之介の名作『枯野抄』には、松尾芭蕉の臨終の様子が詳細に描かれている。時には元禄7年10月12日の午後、所は大阪御堂前南久太郎町、花屋仁左衛門の裏座敷である。

    旅に病んで夢は枯野をかけめぐる      はせを

 辞世の句を詠んだ芭蕉は死の床についていた。
 「埋火のあたたまりの冷むるが如く」の師を前にして、四方から集まった門下の人々が、医師の木節が付き添うなか、一椀の水と一本の羽根楊枝を手に、末期の水を口中にふくませる。その順序は、其角、去来、丈艸、支考、惟念坊、乙州、惟然坊、正秀、之道、木節、老僕の治郎兵衛であった。

 弟子たちそれぞれの心のうちを、芥川龍之介は見事に克明に描出する。そして「悲歎かぎりなき」門弟たちに囲まれて、芭蕉は静かに息を引きとった。

 ところで、昭和35年(1960)私が入社したのは、紡績10社に数えられる大和紡績であった。所在地は大阪市東区南久太郎町4丁目、御堂筋をはさんで、真正面に南御堂がある。疑いもなく、この地は花屋仁左衛門の裏座敷跡地、「芭蕉終焉の地」そのものである。

 確かな証拠もある。社屋「大和ビル」の真ん中に、大阪府建立の「此附近芭蕉翁終焉ノ地ト傳フ」と刻まれた1mほどの石の角柱が立っている。

 話は変わり私が入社した1960年のことを語りたい。歴史をふりかえる時に「あの年」という特別な年がある。1960年もそのひとつ。政治的には、60年安保の年。経済的には、所得倍増計画が始まり、高度成長がスタートした年。60年安保闘争では、国会突入で樺美智子が死亡、浅沼稲次郎が山口二矢に刺殺された。国論を二分した日米安保条約が成立したあと、国中に虚脱感が漂った。

 巷に流れていた流行歌は、水原弘「黒い花びら」小林旭「さすらい」西田さち子「アカシアの雨」だった。

 30倍の入社試験を突破したわが同期の事務系6人の前途は厳しいものだった。昭和20年代に、日本経済を支えた綿紡の黄金時代はすでに終わりつつあり、常に生産過剰に苦しみ、脱繊維が課題となった。

 しかし、会社は中堅といわれる規模ながら独特な力を持っていた。加藤正人初代社長は、繊維業界代表として参議院全国区に出馬し、2位と4位で2回当選、政界でも活躍した。また、空気精紡機を開発して世界初の量産工場を実現したこともある。さらに三好達治が大和言葉で格調高い歌詞を作り、諸井三郎が作曲した社歌を有していた。プロゴルファー岡本綾子を「世界のアヤコ」として世に送り出したのも、実績に数えられるだろう。

 わが同期は困難を克服して成長した。同期代表の武藤治太6代目社長は念願の復配を果たし、その後の発展の基礎を作った。残り5人も、私を含めて新規事業や関係会社の社長に就任して、一国一城の主となった。

 私自身は45年間の会社生活のなかで、二回も自社の社史を執筆するという稀有の経験をした。30代で「大和紡績30年史」(ダイヤモンド社)60代で「ダイワボウ60年史」(凸版印刷)である。社史に「芭蕉終焉の地」のことを書き込んだのは、私の特別な思い入れでもあった。

 入社時から50余年。変わったことを報告する。会社の所在地はそのままだが、地名表記が中央区久太郎町3丁目となった。会社名がカタカナとなり、ダイワボウHDとなった。業容も繊維だけでなく機械製造、情報システムなど多様化、売り上げ規模は数千億円と拡大している。本社ビルは同じ場所で、「御堂筋ダイワビル」と名を変えて15階建て60mの高さの近代ビルに生まれ変わった。社歌も落合武司作詞、山本直純作曲のものに変わった。そして少し残念なことは、「芭蕉終焉の地」の大阪府の記念石柱の位置が、緑地分離帯の都合で50m北へ移動した。

(以上)

◆「芭蕉終焉の地」:森 一心(もり・いっしん)◆

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