関西現代俳句協会

2015年11月のエッセイ

難病と闘いながら

政野すず子

 

     苺ジャム二度ない今を煮詰めゆく    柳沢正子

     挑戦を好きと応える寒の入り      柳沢正子

 この句は柳沢正子さんの若い時の俳句です。真摯に前向きに生きる姿勢が伝わってきます。80歳になった今も彼女のこの姿勢に変わりはありません。
 しかしながら、現在は長野県の、鹿教湯温泉病院のリハビリセンターで、難病のパーキンソン病と闘いながらの生活を送っています。是非ご紹介したいと思います。

 柳沢正子さん(旧姓児玉正子さん)との出合いは、昭和30年代ですから、もう50年以上になります。関西の俳誌「青玄」の全国大会が東京で開催されたとき、ぴちぴちと元気なお嬢さんが、児玉正子さんでした。関西と遠い信州とではそんなに出合いの機会はありませんでしたが、誌友として熱心に投句されるのを、常に注目していました。そして俳句作品から彼女のことも次第に分かるようになりました。 信州は昔から紡績業の盛んな土地柄です。野麦峠の名で知られた、女工哀史も記憶に残っています。話は前後しますが、柳沢正子句集『てっせん花』の彼女の書いた、あとがきを抜粋してみます。

「終戦の昭和二十年八月、父が私達弟妹五人を残して急逝しました。私が九歳、末妹がまだ生後四カ月。敗戦の混乱の中、母はどんなに苦労したことか。弟妹達のため、何よりも母を助けたい一心で、中学卒業後すぐ就職を決め、働きながら勉強ができるという「鐘紡」を選びました。そこで恩師、岡沢鶴年先生と出会い、俳句と書道を学び「青玄」を紹介されたのです。…中略… 今、私は難病治療のため、先の見えないベッド生活の毎日で、気分は滅入るばかりでした。そんなとき移動図書館で、たまたま俳句の本が目にとまり、久しぶりにとても新鮮で、心が希望へと変わりました。「また俳句を作りたい!」。でも、この身体には震えと硬直が毎日のように襲い、鉛筆を握ることも難しいのですが、何とかリハビリに励んでいます。……。」

 思えば、俳誌「青玄」の終刊後、音信の途絶えていた柳沢正子さんでした。平成20年の春、思いがけず電話があり、その後の俳句活動を尋ねられたので、私の所属している「暁」を紹介したのです。そして、書道では、全国展に何度も入選するという腕前ということも知りました。実家の床の間には今も彼女の書いた、長野県歌「信濃の国」の仮名混じりの流麗な軸が懸けられているのを、後年私も拝見しました。

 平成24年の春、しばらく「暁」誌上に名前が見えないことが気にかかっていた矢先の事、突然に、療養先から封書が届き、中には判読もやっとの、たどたどしい鉛筆書きの便箋一枚。俳句を書きたいからリハビリに励んでいるという内容でした。彼女の身の上に起きた事態と、ただならぬ気配に圧倒され、私に出来ることがあれば…、とすぐ励ましの返事を書きました。それからの彼女の頑張りは、目に見えて、療養俳句も鉛筆書きの字にも顕著でした。そして、病院での俳句だけでも、何とか句集をまとめたいとの願いも伝わってきました。そんな懸命な彼女の思いに応えたくて、それを具体化するために、信州の療養先を訪ねたのです。

 闘病中の彼女を目の当たりにし、寝たきりで、身動きさえままならぬ状態の中での、壮絶なまでの精神力に深い感動を覚えました。その姿に背を押される思いで、それまでのおよそ50年間の、彼女の出句作品の抽出、選句と闘病中の俳句を加え、念願の句集『てっせん花』が出来ました。

 こうして作句への自信を取り戻した彼女は、お正月には、絵を描く療養仲間とタイアップしてカレンダーを作るまでになりました。8月には沢山のひまわりの絵の俳句は、「空耳か土中の蝉の叫ぶ声 正子」です。彼女の俳句には暗さというものがないのが嬉しいのです。ノーベル賞の山中教授のIPS細胞の臨床化の実現が一日も早くと祈るばかりです。

(以上)

◆「難病と闘いながら」:政野すず子(まさの・すずこ)◆

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