関西現代俳句協会

2014年5月のエッセイ

ねこのこころ

石井 冴

 今やペットブームは衰える兆しがない。日本の社会や経済が成熟したしるしかどうかはわからないが、いかにストレスをかかえた人が多く、生きものにいやしを求めているのかが窺える。実はペットという言葉に強い嫌悪感を持っていて、気軽にその言葉を使うことに抵抗がある。

 私の使っている電子辞書の広辞苑第五版で「ペット」とひくと、愛玩動物と出てくる。同じように、ジーニアス英和辞典第三版で「pet」とひいてみると、同じく愛玩動物、ペットと出るが、次のような説明がある。≪動物愛護家はこの語を避けてcompanion animalという≫。なるほどと感心してしまった。動物愛護に関して日本と欧米の温度差を感じた。コンパニオンアニマルとは長すぎるので、普及していないのだろう。「ペット」に代わる質のよい言葉を誰か考えてほしいと願っている。

 さて、動物好きに犬派・猫派という分け方があるようだが、自分の俳句仲間を見回してみると、猫好きが多いことに気が付いた。わざわざたずねたりはしないが、ふとした会話の中で知ることがあり、そうするともう猫の話で盛り上がる。俳句の情を述べない短い形式は猫型なのかもしれないと勝手に思っている。その猫派の俳句友達だが、共通する性格があるようだ。まず一番によいのはあっさりしていることだ。クールで「我が道をゆく」を貫いている。それは猫の性格そのものである。猫派である私はミステリアスな彼らにあこがれの念を抱いている。

 俳句を始めたころ、身近な句材としてわが家の愛猫が登場したが、たいてい駄句に終わった。「子や孫、身内のことを書くようになると俳句は下手になるよ」と句会の折りに亡き鈴木六林男先生がよく言われていた。身内の中に愛猫も含まれると思い、それ以来封印している。

 

 先日、新聞の家庭欄で、いかつい顔のお笑い芸人さんが愛情たっぷりに飼い猫の写真を紹介していた。捨てられていた雑種の猫だったが、今では家族の一員になっていると知って、猫の幸運を喜ぶと共にそのお笑い芸人さんに賞賛と親近の情がわいて、たまらなくうれしくなった。その反対に、ショップで買ったと思われる血統のよさそうな猫と写っている人を見ると、何だかその愛情度はうそっぽく思えてくる。

 我が家の「らん」のことを少しだけ書いてみよう。小学生だった子どもが鶴見緑地公園で、片方のてのひらにのる程の小さな体で鳴いていたのを連れて帰ってきた。今年の5月で13歳になる。人間より歳を取るスピードは速く、もう立派な年寄猫だが、さまざまないたずらで家族みんなをずいぶん楽しませてくれている。それが去年、右目が緑内障に冒され手術を受けた。その原因は目の奥に出来た腫瘍で術後の病理検査で悪性だったとのこと。今は元気になって片目でも勝手知ったる家の中を何事もなかったように走り回り、高所も平気で駆け上っている。猫のこころはわからないが、人間と違い、過ぎ去ったことを後悔したり、先のことを思い煩うことをしないのは幸せというべきかもしれない。

 ある日のこと室内に取り込んだ金魚草の尾ひれに、くんくんと鼻を近づけているのを見て思わず笑ってしまった。

(以上)

◆「ねこのこころ」:石井 冴(いしい さえ)◆

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