関西現代俳句協会

2013年10月のエッセイ

「こころ」と「もの」について

金山 桜子

 私にはどうしても捨てられないもののひとつに〈お箸〉がある。何かの拍子に折れてしまっても自分のものなら、まだ「エイ、ヤァ」とばかりに目をつぶって処分をするのだけれど、家族のものとなるとぐずぐずして、結局、食器棚の引き出しに寝かせておくことになるのである。

 お箸は毎日使うものなので、洗ったり拭いたりしているうちにちょっと先が欠けたりする。二本のうち片方は無事なのだけれど、一本が欠けてしまうと使いにくいこと此の上ない。そうは言っても長年使っているので、無事な方もよく見ると塗りが剥げ、傷が入っている。お箸というものは〈食〉に直結していて、それは取りも直さず〈生〉に連なるものなので捨てられないのだろうと思う。子どものお箸はなおのこと。「よくぞここまで大きくなって」などと余計な感慨まで浮かんでくるのである。

 この子どもたちが小学生だった頃の話。

 お正月に私が千葉へ里帰りをした際に玄関の棚にシャボン玉のショッキングピンクの容器が二つ、ストローまで添えて置いてあった。父と母の二人住まいにしてはちょっと違和感があったので母にたずねてみたら、昨年の夏休みに玄関先で子どもたちがシャボン玉を飛ばしていたのだという。二人が帰り、容器を片付けようとした母に、父がそのままにしておくように言ったとのこと。その後は数年に一度しか里帰りが出来なかったので憶えていないけれど、シャボン玉の容器はいつごろまでそこに置かれていたのだろうか。

 父は几帳面で物静かな人だった。その父から初めてもらったものが『美しいこころ いじんの話』という小学一年生向けの偉人伝だった。小学校の入学祝いだったと思う。ナイチンゲールやルー・ゲーリックの話、雪舟が柱にくくりつけられて涙で鼠の絵を描いたという挿し絵まで憶えているから、父からの贈り物がよほどもの珍しく、印象に残ったのだろう。内容はとても簡単なことしか書いてなかったので、今になって偉人伝に取り上げられていた人々の物語を読んでみようかと思ったりしている。

 父が亡くなって、間もなく9年になる。新幹線「のぞみ」号が関西と関東の距離を時間的には縮めてくれたけれど、やはり千葉は遠いなと思う。

 

   鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ     林田紀音夫

 

 ペンケースに鉛筆を入れている人はもうほとんどいないかもしれない。手紙ですらどうかすると活字で届く時代である。掲句は昭和36年に刊行された第一句集『風触』所収のもの。発表されてから50年の歳月が過ぎたことになる。鉛筆の遺書だからこそくせのある文字の傾き加減や筆圧に故人が偲ばれて忘れがたいのだと感じる。

 もういないのに、身近な人だとその人の誕生日が来ると些細な出来事を思い出している。命日より誕生日の方が特別な日として記憶し続けてきた時間が長いからだと思う。一年に一度、その人とめぐり合えたことを感謝する日があっても良いかな、と考えている。

(以上)

◆「『こころ』と『もの』について」:金山 桜子(かなやま さくらこ)◆

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