関西現代俳句協会

2012年10月のエッセイ

六十七年目の合掌

上藤おさむ

 8月16日、急に思い立って御所市の真龍寺をたずねた。真龍寺は私が終戦の直前まで、学童疎開でお世話になったお寺である。猛暑の中、大和葛城山、金剛山を背景にして、六十七年前を回想していた。

 1944年(昭和19年)9月9日の朝。私は、集団疎開児童出発式の列の中に居た。当時私は、大阪市内、某国民学校の初等科2年生であった。高学年生も含めた一行は、疎開地の南葛城地区を目指して出発した。先のことは何も想像する事は出来なかったが、不安と楽しさが入り混じった複雑な思いだった。

 学童疎開は同年6月30日、国は戦禍から学童を守るため、個人及び集団で農村などに一時移住させる事を閣議決定し、9月から全国で移動が実施されたものであった。

 南葛城地区へ向った我々は、学年別に各村のお寺に分散した。6年生は大正村の九品寺、浄土寺、専念寺。5年生は忍海村の極楽寺。4年生は秋津村の法谷庵などである。

 天王寺から近畿日本鉄道、南大阪線に乗車、尺土駅で乗り換え、御所駅終点まで当時で1時間を要した。駅から真龍寺まで歩いて10分、取りあえず本堂に落ち着いた。住職から歓迎と励ましのご挨拶があった。昼食を済ませた一同は、真龍寺本堂正面の飛鳥川で膝まで水に浸かり、時間の経つのも忘れて夢中になって遊んだ。

 さて、疎開の初めての夜となった。担任の先生から今後のことについて、色々な説明があり、いよいよ夕食。この辺りから現実に引き戻された我々は、昼の元気は消え失せ、皆押し黙ったまま食事を摂った。

 就寝の時間となり、寝床に入ったものの淋しさは頂点に達し、あちらこちらから啜り泣きの声が聞こえ、なかなか寝付けなかった。

 3日目に脱走者が出た。淋しさに耐えられず、御所駅から無賃乗車で大阪まで逃げ帰ったのである。勿論すぐ親に連れられ、お寺に戻って来た。その後も数人の脱走者が出た。

 後日、母から柳行李が一個届いた。荷を解くと着替えなど日用品の間から、布の小袋が出てきた。中身は煮抜き卵が2個、塩も添えてあった。私の大好物を覚えてくれていたのだ。誰にも見られない様に、こっそり食べた。涙が出そうになった。今でこそ、煮抜き卵など珍しくも何ともないが、当時の都会の人間にとって、大層なご馳走だった。

 少しお寺の生活にも慣れて来た頃、嫌な事や恐ろしい出来事があった。夜便所の行き帰り両脚に無数の蚤が付き、これを払うのに難儀した事。地元の子供らに揶揄された事である。毎日のように、本堂正面の県道から、通学の行き帰りわれわれに向って「おかいのしゃぶしゃぶ・おかいのしゃぶしゃぶ」と連呼するのである。つまり殆んど米の入っていない粥を食べている、栄養失調気味の我々を見て、そう思ったのだろう。初めは言われるままに黙って聞いていたが、堪らず反撃した。

 或る日の午後、米軍のグラマン戦闘機が本堂に向って、機銃射撃をして来た事があった。遠足の途中で攻撃を受けたとか、村で撃たれたとか、様々な情報が流れていたので、本堂に布団を積み上げ、その陰に隠れていたら実際に攻撃を受けたのである。後で分った事だが、大和高田の大日本紡績の高田工場を標的にして、たびたびグラマン戦闘機が飛来していた様である。

 10カ月余りの疎開生活だったが、心に残っている住職の言葉「一日に一度でよいから心の中で南無阿弥陀仏を唱えなさい。阿弥陀様はあなた達を必ず守って下さるから。」は今に生きる一言だろう。

 六十七年振りに訪れた真龍寺は住職も三代目、全てが大きく変わっていた。本堂の濡れ縁・蚤に集られた廊下・鐘楼・門などが、改装されていたり無くなっていたが、ただ一つ変わらないものがあった。それは、金色に輝くご本尊の阿弥陀様である。

 私は感謝の気持ちを込めて、静かに手を合わせた。

(以上)

◆「六十七年目の合掌」(ろくじゅうしちねんめのがっしょう):

上藤おさむ(うえふじ おさむ)◆