関西現代俳句協会

2012年3月のエッセイ

  米寿

梶山千鶴子

 老い先短い老人がいい思いをしたという喜びを冥途の土産というのだそうだ。私は黄泉苞苴(つと)という言葉に魅せられて彼(あ)の世の父と母に叱咤されるかも知れない脅えを振り絞って筆を執ることにした。

 始めから一人子だった私は、支那事変からやがて大東亜戦争になり、遂に敗戦の憂き目を見ることになったのだが、その後の人生は様々な過酷な運命に襲われた。

 今日この歳になって俳句仲間から米寿の賀を祝ってもらえる幸せを感謝している。

 私の俳句の始めは、昭和三十六年六月、鹿ヶ谷法然院で、当時俳誌「京鹿子」青嶺集の主宰丸山海道先生の葵句会≠ノ初参加した。

 その後人々との出合いがよかったので今日まで四十八年程休まず俳句を学んでいる。その間の御縁は人間ばかりでなく様々の縁のすべてがなつかしく、天地の大恩に感謝の日々であった。

 昭和四十一年の合同句集「葵」の丸山海道先生の序文を読んですべてが昨日のことのように懐しく思い出される。

 その後、尾崎作太氏の肝煎で、多田裕計先生のれもん≠ノ参加し、浪漫主義俳句を学んで来た。しかし先生の御逝去にて勉強途中で先生の御心さえ理解出来ぬままに、俳句孤児となってしまったのは、昭和五十五年のことだった。

 そして一時期御縁のあった波多野爽波先生も御他界。

 この先生は海道先生や裕計先生とは又違った意味での魅力ある俳人でよい意味での遊び上手な詩人だった。旅のお伴をしてもどこかに浪漫を感じた。短い時期だったが旅のお伴も度々したが仲でも私の得意な吟行地、新潟県の飄湖周辺の旅はよく人を誘って出かけた。爽波先生のお伴をしてこの地を訪ねたときの先生の喜ばれようは今でも忘れられない。まるで蝶のようにとび廻られた。

 様々の思い出は、特に印象的な俳人との出会いと共に心の奥深くいつまでも消えることはない。

 現在は、多田裕計先生の流れを汲むきりん℃盾ノ同じ志を抱く者が集って句会を重ねているのだが、私自身、年齢や環境ばかりでなく物を見る鋭どさが衰えて来たようである。

 人間歳を重ねると丸くなると言う人もいるがこの丸さがむつかしい。要は人間としての人徳や万物に対する労わりのある眼差しが大切だと思う。

 と言っても労わりより労わられる事の多くなった昨今である。

 最近、きりん句会で米寿の祝をしてもらった。黄金の帽子と半纏を身につけて黄金の座布團に坐る。

 このときばかりは、自分を見失うほどの幸福感だった。

 俳句道この道は、何年学んでも完成ということがない。下手は下手なりに精進して続けていると、様々の人や自然や物との出合いもあり、いつまでもやめられない。

 よき師とよき師系をいただき、よき仲間と俳句勉強の恵まれた環境を得ながらこの道の真髄を究めたいと精進の日々である。

(以上)

◆「米寿」(べいじゅ):梶山 千鶴子(かじやま ちづこ)◆