2011年4月のエッセイ母を詠む嵯峨根鈴子生涯に母の句を詠んだことがないと言う俳人は恐らくあまりいないのではないだろうか。母を詠んだ名句も多い。踏み止まって流されずにというのも方法なら、いっそ気持ちよく流されてみるというのも方法であろう。 これらの句は踏み止まって写生に徹したものと言えよう。 夏の母熟睡の蹠すさまじき 宇多喜代子 梅の夜の管を通りし母の尿 山尾 玉藻 遊ぶ子にはなれて母の冬帽子 片山由美子 母の死のととのつてゆく夜の雪 井上 弘美 左義長の燠つかみたる母の素手 田中 英花 次の句には気持ちよく浸っていただきたい。 秋の灯にひらがなばかり母の文 倉田 絋文 水戀ふは母戀ひなりし冬霞 髙橋 睦郎 走馬燈母の夢にも早瀬あり 齊藤 眞爾 やはらかき母にぶつかる蚊帳の中 今井 聖 母を訪ふおぼろ月夜の端を縫ひ 源 鬼彦 図らずも男女の遺伝子的違いが窺えるようで興味深い。 ところで最近話題になっている『超新撰21』の中から「母」の句を探してみると10名の方による22句の「母」俳句がみられた。2100句の内に22句という数が多いか少ないかは解からないが、前述の俳句と比べるとかなり複雑な印象を受けるのだがどうだろう。ここでは気になった8名の20句を取り上げてみた。 母の慈愛降り積もりて 発狂す多摩川べり 種田スガル 脳裏にやけどするまっさらな母への裏切り 〃 カラ返事のみ 母からの電話に足裏の皮むく 〃 まず種田スガル氏の場合、俳句の器の抵抗力は失われて何の役にも立たないようだ。「母の慈愛」から「発狂す・・・」への落差や「まっさらな母への裏切り」と「やけど」とを対比させながら「作者と母」の実景が見えると思わせるところが面白い。どうも上手く嵌められたような気もするのであるが・・・。 蝉殻を脱げぬ蝉ゐて母がりへ 男波 弘志 先づ母の臍をしまへり蝮草 〃 合歓咲いて母の着丈となりにけり 〃 桃咲くやまだ歯の生えぬ母とゐて 〃 金魚玉と母をすり替へてしまふ 〃 22句のうちの5句が男波弘志氏の句であった。息子の母恋とも違う「母の臍」「母の着丈」「まだ歯の生えぬ母」を理解するには膨大な数の永田耕衣の「母」の句から始めなければなるまい。筆者には耕衣の〈母死ねば今着給へる冬着欲し〉や〈母の死や枝の先まで梅の花〉等が浮かぶのであるが・・・。 海の字より母を連れ出す晩夏かな 佐藤 成之 かあさんはぼくのぬけがらななかまど 〃 佐藤成之氏の「海の字より母を連れ出す」という字体による表現は鳥居真里子氏の〈陽炎や母といふ字に水平線〉や片山由美子氏の〈「母」の字の点をきつちり露けしや〉、小澤克己氏の〈母の字に泪の二滴鳥渡る〉にも見られるが、この方向にまだ広い世界が残っていそうな気もする。「かあさんはぼくのぬけがら」とはまたあっけらかんと言い放ったものだ。「ななかまど」は秋の大空によく乾いている。 朝刊にはさまれ来るは母の櫛 山田 耕司 霧は霧に飲まれ ゆぶねの母は鱶 〃 降る花を母と思はばのど仏 〃 山田耕司氏の「母」はことばとしての「母」が不気味に生き生きと描かれている。「朝刊にはさまれ」と「母の櫛」を繋ぐのに「来るは」という動作が挿入されたことで、あたかも母そのものが朝刊に挟まって来たかのようにもとれる。「ゆぶねの母は鱶」とは「霧は霧に飲まれ」という措辞により一層底知れぬものになっている。 みんみん蝉スサノヲはまだ母を恋ひ 篠崎 央子 空ばかり見て時の日の父と母 〃 永遠の青春性を持つ須佐之男命にいつもみんみん蝉が鳴いてるように母は常に恋われる対象としてあるべきなのだろうか。角川源義の〈かなかなや少年の日は神のごとし〉に通じるものがある。 父が母へ投げる玉葱俺の上 田島 健一 一家団欒にしては奇妙な光景だろう。人は涙して玉葱を調理するが、あの甘味はどこか懐かしい。メタファーとしての玉葱が何なのかは読み手に委ねられているようだが、よく効いている。夫婦のやりとりに「俺」は完全に無視されている。 母のゐる闇ふみてゆく星祭 明隅 礼子 「星祭」という逢瀬のせいだろうか、母と娘の立つ微妙な位置関係に思いを寄せるのは筆者だけだろうか。 地下茎のやうな母なり梅雨満月 柴田 千晶 猫に餌投げつけし母冬満月 〃 蜩や砂風呂に母深く埋め 〃 柴田千晶氏の「地下茎のような母」は「梅雨満月」を潤沢に浴びて太り、「猫に餌投げつけし母」は「冬満月」にくっきりと悪意の顔が浮かぶ。そして母は砂風呂に深く深く埋められるのである。また〈からっぽの子宮明るし水母踏む〉には故意に「母」を隠していると思える。〈曼珠沙華私の骨の中に父〉という一連の父恋の句と比べれば、終わらない母と娘の葛藤とも取れるのであるが、その実体は掴めそうにないのは何故だろう。 さてここで筆者にとって「母」の句と言えばすぐ思い浮かべる句、気になる句を幾つか挙げて於きたい。 今生の汗が消えゆくお母さん 古賀まり子 傷舐めて母は全能桃の花 茨木 和生 凌霄(のうぜん)やギリシャに母を殺めたる 矢島 渚男 母縮む日向(ひなた)くさくて飴なめて 坪内 稔典 蓮は肉母上は酢でしめるなり 柿本 多映 母の手の冷えきつてゐる春著かな 大木あまり 泣きながら責めたる母の荒野かな 津沢マサ子 母親よ池のかたちの薄氷よ 池田 澄子 いちじくを割るむらさきの母を割る 黒田 杏子 母を出でゆく赤きあれこれ雪降りぬ 櫂 未知子 木箱で帰す海市から来た母を 河西 志帆 夜濯の母を攫ひに父来るな 谷口 智行 長寿の母うんこのようにわれを産みき 金子 兜太 これらの句は作者にぴったりくっ付いて頗る個人的な母を詠んでいるにもかかわらず、何故か普遍的な「母」に繋がっているような気がしてならない。触れられたくない触れてはならない「母」に踏み込んでしまったような・・・。 此処まで来て結論などと言えるものは何もないが、先ごろ亡くなられた佐野洋子氏の母に纏わるストーリー『シズ子さん』の読後感とでも言おうか、どんな「母」も許されているというのはあたたかい。だがしかし、これらの「母の一句」の背景にどれほどの物語が潜んでいるかと思うと空恐ろしいというのが実感である。 えりまきの母の狐と私の狐 嵯峨根鈴子 (以上) ◆「母を詠む」(ははをよむ):嵯峨根鈴子(さがね すずこ)◆ |
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